【1】

 

建築は人類最古の造形物である。

 

原始の人間は風雨、寒暑、外敵などから身を守るため、木を組み立てて骨組みを造り、その上に木の葉や草で被ったり石や粘土で穴倉のようなものを造って暮していた。

 

その後人口の増加、文明の進歩とともに、住居のほか倉庫、集会所、仕事場、堂宇、城郭、政庁、宮殿、店舗、病院、学校その他各種の用途に供する建築が生れました。

 

これらの建築は、地球上の各地域の気候風土や土着性によって、千差万別の様式となり、それらの建築を美しく装飾することによって、建築は芸術作品となった。

 

時は移って20世紀は近代建築の時代となる。

 

だが、20世紀の初期は、まだ19世紀末のアールヌーボーの残照が輝いており、世界一美しい郵便局と言われる、ウィーンの郵便貯金局を設計したオットー・ワグナーや、スペイン・バルセロナで現在も建築続行中のサグラダ・ファミリア大聖堂を設計したアントニオ・ガウディ、スコットランドにジャポニズムの影響が見られる、ヒルハウス(丘の家)を設計した、C・R・マッキントッシュらが活躍していた。

 

1920年代になると、工業化社会の進展によって、建築の主材料が木、石、煉瓦から鉄、コンクリート、ガラスへと変化し、それを機に伝統様式を否定して装飾を排し、合理主義、機能主義に徹した、単純明快なフォルムの、モダニズム建築の時代が到来する。

 

その先駆をなしたのが、四面ガラス張りの工場を設計し、自身が校長を勤める、芸術学校バウハウスを創設したグロピウス、ニューヨークの国連本部の設計を主導し、東京上野の国立西洋美術館などを設計したル・コルビュジェ、鉄骨とガラスで平屋の住宅から超高層ビルまで設計した、ミース・ファン・デル・ローエである。

 

これらモダニズム建築の巨匠達のシンプルなデザインは、インターナショナル・スタイルとなって、全世界を風靡するに至った。

 

しかし、1960年代になると、「機能的なもののみが美しい」とする、教条主義的なモダニズム建築が、無味乾燥的だとする批判から、伝統的デザインを容認し、自然との共存、他の造形作品との調和を図るなど、新しい建築表現を模索する、ポストモダニズム(ポストモダン)運動が興った。

 

こうして現代建築は、モダニズムとポストモダンが競合しつつ、21世紀を迎えたのである。

 

21世紀の建築スタイルが、どのようになるか、知るよしもないが、建築がさらに美しく、魅力的になることを願うものである。

 

【2】

 

日本の近代建築の萌芽は、明治政府のお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルらによってもたらされた。

 

続いてコンドルに学んだ辰野金吾、片山東熊らによって、東京駅、赤坂離宮など西洋伝統様式をモデルにした建築が数多く造られた。

 

さらに1920年代になると、堀口捨己らによって、西洋の模倣による、過去様式からの分離を目指す運動が興り、一定の成果もあったが、永年にわたる戦時体制の中で、大きく広がることはなかった。

 

日本の近代建築が大きく開花したのは、第二次世界大戦後である。

 

戦災復興とそれに続く高度経済成長による旺盛な建築需要のなか、公共建築を中心に、ル・コルビュジェに師事した前川国男、坂倉準三、吉岡隆正らモダニスト連と、モダニズムに距離を置き、日本の伝統的衣装を継承しょうとする村野藤吾、吉田五十八、堀口捨己らアンチモダニスト達が競いあって、新たな日本建築の造形美を創出し、日本建築のレベルを大いに高からしめた。

 

そうしたなかからル・コルビュジェ的モダニズムと、日本の伝統美を融合させた作品によって、先輩の巨匠達を追い越して、日本近代建築界の頂点に立ったのが、愛媛県今治市出身の丹下健三である。

 

【3】

 

丹下は1913年に、銀行員の父の勤務地である大阪府堺市で生れた。

 

生後まもなく父の転勤で中国の漢口へ、さらに上海に移り、6歳のときに父が銀行を退職して、会社を経営することになり、一家とともに今治市に帰郷した。

 

小、中学校は今治で学んだあと、広島高等学校に入学、2浪の後東京帝国大学工学部に入学、25歳で卒業後コルビュジェに傾倒していた彼は、コルビュジェに学んだ前川国男の事務所に入所したが、4年後東大大学院に復学し、1946年33歳で助教授となった。

 

 

1949年丹下36歳のとき、広島平和記念公園及び記念館(広島ピースセンター)の設計競技で、132件の応募の中から1等当選を果した。

 

計画案は敷地の南側の東西軸の中央に、公園のゲートとなっているピロティ(高床)の上に、日本の窓格子を思わせる、縦ルーバーに覆われた資料館を置き、その東側に本館を、西側に公会堂を並べ、資料館と北側の原爆ドームを結ぶ南北軸の中心に、埴輪形の慰霊碑を置き、その前面を芝生の広場に、両側に樹林を配するという、シンボリックな構想で、これが海外に紹介されるや一躍注目を集め、日本に丹下ありと、世界にその名を知らしめたのである。

 

ピースセンターは丹下の計画案にそって、1955年に完成した。その後の改修によって、コンクリート造の慰霊碑は石造に、公会堂は国際会議場になり、公園の樹木も大きく繁って、この被爆の聖地は、日本で最も美しい都市景観となった。

 

【4】

 

私は少年の頃から古今の名建築や、名園を鑑賞したり、建築関係の書物を見るのが趣味だった。

 

そんな或る日、「建築文化」誌の1960年1月号に、丹下設計の香川県庁舎が特集されていた。それは私のお役所建築に対する認識を一変させるものだった。

 

 

私はお役所建築といえば、国会議事堂や愛媛県庁舎のように、建物の中央に塔やドームを戴き、いかめしい玄関を持つ、いわゆる帝冠様式の建物をイメージしていて、そのことに何ら疑念をもっていなかった。

 

だが香川県庁舎は、こうした権威主義的な建築とは全く対照的に、開放感に充ちあふれていた。

 

私は実物を見るべく高松に行った。

 

1958年に完成した香川県庁舎は、東側の道路に面して長さ約100m、2階分の高さを持つピロティ(高床)の上に2階の議会棟を置き、その背後に8階建32m四方の本館が配置されている。

 

1階(高さ2階分)は全面ガラス張りで、中央に外径14mのコア(核)があり、内側は移動、設備関係の空間に、外側は猪熊弦一郎の美しい壁画で飾られていて、その周囲の1階フロア全体が、県民ホールとして市民に開放されていた。

 

外観は日本の伝統的木割の美を、鉄筋コンクリートで表現しており、2階以上の各階にめぐらされた縁は、同時に下の階の庇となっていて、それを支える垂木のような小梁が、陽光を浴びて美しい陰影のリズムを奏でている。

 

この県庁舎には、お役所としての権威を示すものはないけれども、端正で格調高く威風堂々としていた。

 

庁舎の南側構内は、開放された庭園になっていて、庁舎に接して長方形の池がある。私が初めて行ったとき、たまたま下校中の小学生が、池の鯉に餌を与えていた。その後池に架っている橋を渡って県民ホールに這入り、グラビアのようなものを見ていた。

 

子供にまで親しまれている県庁舎が他にあるだろうか。私はこれこそ真のシティホールであると痛感したのである。

 

2000年に本館の背後に21階建高さ113mの新本館が完成したが、日本的モダニズムの結晶ともいえる旧本館の存在感は微動だにせず、今なお堂々たる威容を誇っている。

 

旧本館は官公庁建築のモデルとなって、各地に類似の庁舎が出現したが、香川県庁舎を超えたものはない。

 

【5】

 

1964年先進国の仲間人りを果たした日本の威信をかけて、東京オリンピックが開催された。その国威のシンボルとして建築されたのが、丹下設計の国立屋内総合競技場(国立代々木体育館)である。

 

 

この体育館は直径120mの第1体育館と、直径50mの第2体育館から成っていて、両館とも吊り屋根構造で出来ている。

 

吊り構造は橋では多くの実例があるが、建築では小規模な前例はあっても、代々木体育館のような、巨大な建築に採用されたのは、世界で初めてである。

 

第1体育館は、建物の両側に立つ柱の間に2本のケーブルを張り、そのケーブルに吊られた屋根が、美しい曲線を画いて館内を覆っている。屋根の両端には鴟尾を置いた、古代寺院の大屋根を思わせる。

 

第2体育館は、1本の柱に張られた1本のケーブルで、投網を打ったように、屋根を吊り広げている。こちらは塔をイメージしているようだ。

 

代々木体育館は日本の伝統文化と、モダ二ズムとの調和によって、流麗な曲線美と、力強い構造美を併せ持つ、世界最美の体育館となった。

 

外国から来たオリンピック選手は、壮麗な館内空間を見て、まるで宮殿のようだといった。

 

国際オリンピック委員会は、世界最優の体育館を設計した功績を讃えて、丹下に功労賞を授与した。時に丹下は51歳であった。

 

代々木体育館は、単に丹下の最高傑作であるばかりでなく、日本近代建築の頂点であり、その芸術的、技術的レベルの高さを世界に知らしめた記念碑的作品である。

 

この作品によって丹下の名声は海外にも轟き、彼は世界のTANGEとなった。

[下]につづく