タイトル

名前:某々興輝[・・・・オキテル]

七五三

父輝男が「輝」にこだわり「輝興」と名付けようとしたが、姓名判断で「良くない」と言われ、『興輝』(オキテル)したとのこと。

祖父には、『置テル』と書かれ、会津の小学校では、教師に「オチテル」(東北にも[キ]を[チ]と発音するところがある)と呼ばれ、子供の頃から、「オキテル、ネテル?」とからかわれ、大学でも教授に『お前はオキテルだが、授業中よくネテルな』と皮肉られた。

その割にいやな名前と思ったことはない。おそらく、世界に一人しかいない名前であろうと妙な自己満足をしてきた。

2001年、読み方こそ違え、同名の人の存在を知り、一人居ると言うことはもう一人居てもおかしくないと思うようになった。

2014年インターネットの同姓・同名を探すページを見つけた。同姓・同名者こそ見つからなかったが、同名者が、数十名、全国にいることを知った。(このブログ参照)

      

略歴:引き揚げから退職まで

第2時大戦勃発の年に、父の勤務地中国北京で生まれた。

終戦で、大連からの引き揚げ船に乗るとき、生まれて初めて白色人種(米国兵)を見た。あまりに鼻が高く、背が高く、赤い顔をしているので、化け物を見たように怖かった。

引き揚げ船は米軍のLST。船底に皆で雑魚寝した。 歌手、渡辺はま子_この名前を知っている人があまりいなくなった_が一緒だった。

航海中幼児が死亡し、水葬があった。デッキで泣き崩れて、海に沈んでゆく水葬の包みを見つめる母親の姿が今も目に浮かぶ。上陸地佐世保では頭からDDTをぶっかけられた。

その後、父の郷 会津、母の郷 今治、父がようやく職を見つけた 沼津 と転々としたあと、沼津で小・中・高校を卒業。大学は仙台へ行った。

58才直前、会社のリストラで早期退職勧奨があり、2年という自由時間が?百万円なら安いと考え早期退職に応募、34年でサラリーマン生活を中退した。退職して、早、四半世紀を超えた。

退職後現在まで

ジム通いと病院通い以外定期活動なし。パソコン、美術館・博物館探訪などで過ごす現在_とするつもりがコロナウィルス騒ぎで、美術館・博物館探訪はこの3年楽しめてない。

退職後暫くは、あれこれ手を出した:

国際交流ボランティア団体参加

外国人相談窓口、外国人向け日本語教室、国際交流広報活動に参加

相談窓口、日本語教室は、難聴で相談者・学習者の発話を聞き取れなくなり、5年足らずで退く

広報活動で団体のホームページを立ち上げ、10年間 ホームページ制作を担当のあと後任に譲る(2009)

エレクトーン教室、放送大学入学、パソコン自作

エレクトーンは、難聴で伴奏音が聴き取れず、発表会で大恥をかき断念(2012)

パソコン自作は、10台目組立を以て最後とする(2013)

放送大学は、22年間在籍し、2度目の卒業で完了(2019)

パソコン教室

中高年・主婦のグループ二つにそれぞれ週1回教える個人ボランティア活動として開始(2000)

16年間続け、唯一・最後のボランティア活動になったが引退(2016)

趣味:パソコン、旅行、美術館・博物館探訪

オーディオ、楽器、読書、旅行、パソコン、パズル、コントラクト・ブリッジ、ゴルフ、テニス等々あれこれ手を出してきたが、オタクになれたものは一つもない。

オーディオには、若い頃から、結構金を注ぎ込んだが、難聴が進み、聴くことが無くなった。

「聴かないのなら処分して! 邪魔なだけ!」とのカミさんの苦情に、2013年、買い集めたLP・CDを含めオーディオ機器全てを処分した。これで、音楽に関する物は一切無くなった。

パソコン、旅行、パズルが今も続いているもの。

旅行は、以前は、毎年海外旅行に行っていたが、難聴がひどくなってあまり楽しめなくなり、2013年を最後に国内旅行に切り替えた。

だが、趣味と気取るには、旅行の頻度が少ない。せめて、年6回は行きたいと思って居るのだが...

コロナ騒ぎで家に籠もる生活を続けている間に、脚力の衰えが気になり始め、あまり歩かない旅行を求めるようになっている。

パズルは、数独とトランプ一人遊びゲームに凝っている。新聞の数独とパソコン付属のトランプゲームがいわば日課。

オーディオに替えて新たな趣味にするつもりで、2013年から美術館・博物館巡りをしている。

こちらも、コロナ騒ぎ以降、脚力の衰えもあり頻度が激減している

好物:酒、ポテトパンケーキ、オニオングラタンスープ、フランスパン、魚の煮付け、ブルーチーズ、豆腐餻、水なすの浅漬

「酒と名の付くものにまずいものなし」と思っている。特に、日本酒と赤ワインが大好物。とはいえ、良くある、日本酒オタクやワインオタクではない(なれない)。

医者に血糖値が高目と言われ続け、最近は、酒量を控え目にしている。

孫息子が、2017年、成人になった。二十歳の誕生祝いで初めて盃を交わした。2022年卒業し社会人となった。しかし、彼はあまり飲まない。

上の孫娘も2021年成人になった。2023年大学を卒業就職している。こちらも、あまり飲めない。

下の孫娘が2023年成人となったが、かなりの飲める印象で楽しみである。

酒 スープ 豆腐餻

会社勤めの頃、先輩との会食や接待などであれこれと美味いものを知った。

社会人になって間もない頃、虎ノ門に有ったビアホールで、ポテトパンケーキに感激。銀座三越裏のフレンチレストランで「オニオングラタンスープ」を知る。

先輩と飲みに行った折にブルーチーズをご馳走になり、見た目と味に驚く。

豆腐餻は、宮仕えの頃度々沖縄に出張しながら知らず、水なすは、堺に2年間住んでいたのにも関わらず食べたことなく、いずれも退職後に知った。

クセ:忘れ物(こと)

宮仕えの頃、定期券を持たないで家を出たことは数え切れない。「ハトガマメクテパ(ハンカチ、時計、がま口、マッチ、眼鏡、櫛、手帳、パス(定期券)」という呪文を覚えたが、それを唱えることを忘れる。

出かけるときには必ずカミさんに『忘れ物はない?』と声をかけられる。『忘れ物が分かっていれば忘れ物ではない』と悪態を付いているが、それでも忘れる。

カミさんは、以前より「もう、病気ね!」と言っている。諦めたのかと思いきや、相変わらず、小馬鹿にしたように文句を言っている。

10年以上も前だが、友人との約束を2回立て続けに忘れ、友人からアルツハイマーが始まったのではないかと脅かされたことがある。

だが、やはり、認知症の不安を感じ始めた。まだそれらしい兆候は、物忘れ以外ない(と思っている)が、両親にそれらしい兆候が現れたのも、現在の自分の歳の頃であり、2021年亡くなった13歳年上の敬愛する叔父に症状が始まったのも90歳だった。いずれ我が身と警戒している。

どう準備をするべきかと悩むのだが、名案は全くない。医学の進展を待つしかなさそうだ。

家族:かみさん、娘二人、息子一人、孫3人

子供3人、子どもの連れ合い2人、孫3人で合計10人の家族。

父(1914年生まれ)が1999年、母(1915年生まれ)が2009年に亡くなった。長女と息子は結婚して家を出た。下の娘も2004年、家を出た。現在は、カミさんとの2人暮らし。

カミさんとは、1967年に結婚して、既に金婚を迎え終えた。夫婦喧嘩もせず長い間一緒に来られたことをしみじみ良かったと思う。

3人の孫は、一番上の孫息子は大学院を卒業し就職した。2番目の孫娘も2023年大学を卒業し就職した。3番目の孫娘は高校卒業し、専門学校在学中。

孫たちの成長には、目を見張るものがあり、楽しみでもあるが、己の加齢を思い知らされることでもある。

親友が、「あるがまま このままでいい 老いの道」とか「生きるって虹のようだと つい思う」などの 川柳をものしているが、まだ、そのような達観した気分にはなれてない。

"Today is the first day of my remaining life."

"Yesterday is history, Tomorrow is mystery, and
   Today is a gift. That is why we call it present."

と言う名言を口ずさみ、味わいながら、過ごしている。

改 23.07.26