正岡子規は江戸末期以来の俗化した俳句の革新に努め、近代俳句を確立して、松尾芭蕉、与謝蕪村に並ぶ大俳人といわれていることは、広く知られているが、短歌においても風流韻事に堕した短歌を革新して、近代短歌の基礎を築いた超一流の大歌人であることは、一般にはあまり知られていない。

子規が短歌を作り始めたのは、明治15年15歳(子規の年齢は年号と重なつている)からであって、18歳から始めた俳句よりも早く、35歳で没するまでに2,340余首を数えている。

これは俳句の25,400余句の一割にも満たないが、子規が短歌革新を目指して、本格的に短歌に取り組んだのは、明治31年以降であり、しかも病床に伏した状態の中で、俳句、評論などと並行しながら、2,850余首を作歌しているのは、彼の旺盛な創作意欲を物語っている。

 
子規の歌集「竹の里歌」の冒頭を飾ったのは、明治15年に唯一首作った次の歌である。

隅田川堤の桜さくころよ花のにしきをきて帰るらん

この歌は上京した遠縁の友人が、成功して故郷に帰るだろうという、お祝いの歌である。

以下「竹の里歌」所収作品の中から、年次毎に一首づつ掲げる。
( )内は作歌数(抹消歌を除く)
  • 明治16年 (東海紀行所収2首のうち)

    ふる郷をかなたの空とながむれば窓にさし入るおぼろ月かな

  • 明治17年 (1首)

    生が帰か死が帰か夢の世の中に夢見てなやむ我身なりけり

  • 明治18年 (35首)

    庭もせの草木の影も短くてはや中空にのぼる月かな

  • 明治19年 (14首)

    さわぎいし友むれすゞめ鈴の音にいづくともなんかくれけるかな

  • 明治20年 (1首)

    見渡せばはるかの沖のもろ舟の帆にふく風ぞ涼しかりける

  • 明治21年 (1首)

    我がこひはあはでの海のいそによるみるめばかりやあふこともなし

  • 明治22年 (抹消歌より)

    ほとゝぎすともに聞かんと契りけり血に啼くわかれせんと知りねば

  • 明治23年 (3首)

    とこしえに散らぬつゞれの錦とはもみぢに似たる鳥の跡かな

  • 明治24年 (32首)

    世をすてし身とはおもへど雨の日はすげのふるみのすげのふるがさ

  • 明治25年 (27首)

    玉くしげ筥(はこ)根の空をながむればふたごの山に雲たちのぼる

  • 明治26年 (32首)

    みちのくの夕風あれていづる月にこがね花ちる沖の白波

  • 明治27年 (16首)

    君が着る羅紗の衣の薄ければな吹きおろしそから山おろし

  • 明治28年 (38首)

    夜の戸をさゝぬ伏屋(ふしや)の蚊帳の上に風吹きわたり螢飛ぶなり

  • 明治29年 (作例なし)

以上習作期の歌は作例も少なく、短歌の師井出真棹の影響もあってか、後に子規が舌鋒鋭く攻撃した、古今集の歌風に色濃く染まっている。

この年は作歌していないが、これは短歌への意欲をなくしたのではなく、これまでの古今調的歌風を払拭して、子規独自の革新的短歌を模索していたのではないだろうか。

  • 明治30年 (5首)

    柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき

    この歌は子規の畏友である京都の天田禺庵和尚から、柿15ヶを贈られた返礼歌5首のうちの1首であるが、これまでのように詞をかざることもなく、端的に意思を表現していて、子規の短歌革新の萌芽が見え始めている。

  • 明治31年 (692首)

    この年の2月から3月にかけて、子規は所属する新聞「日本」 に、「歌よみに与ふる書」を10回にわたって発表し、「仰せの如く近来和歌は一向に振い不申(もうさず)候、正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振い不申候。」。「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之(これあり)候。」などと、古今集とその亜流の旧派を痛烈に批判した。

     
    これに対して旧派の歌人やその同調者からの反論も激しく、子規の拠点である「日本」社内でも、子規に反対する者が多く、孤立無援、四面楚歌の中で、多数の論敵と闘わねばならなかった。

    こうしたなかで子規は友人の漱石宛に、次のような手紙を書いている。「歌につきましては内外共に敵にて候、外の敵は面白く候へども内の敵には閉口致侯、内の敵とは新聞社の先輩其他交際ある先輩の小言に有之候、まさかそんな人に向かって理屈をのぶる訳にも行かず、さりとて今更出しかけた議論をひっこませる訳にも行かず、困却致候(以下略)」と、子規は珍しく弱音を吐いている。

     
    だが、これしきのことに怯むような子規ではない。彼は「歌よみに与ふる書」と並行して、「百中十首」(自作の短歌百首の中から歌人、俳人、言論人ら11人の選者に1首づつ選んでもらう)を、11回にわたって「日本」紙上に発表して、短歌革新理論を実証してみせ、遂に反対派を沈黙させたのである。

    今西幹一氏は著書「正岡子規の短歌の世界」の中で、「百中十首」其1〜其11の中から1首づつ選者別に次の11首を選んでいる。

    其1 白雲 (五百木瓢亭) 選

           椽(えん)先に玉巻く芭蕉玉解けて五尺の緑手水(てうず)鉢を掩ふ

    其2 徒然坊 (坂井久良伎) 選

           中垣の境の桃は散りにけり隣の娘きのふとつぎぬ

    其3 某 (陸羯(くがかつ)南=新聞「日本」社長) 選

          黒川の境にかける水車汲みてはこぼす山吹の花

    其4 (河東) 碧梧桐 選

           古庭の萩も芒(すすき)も芽をふきぬ病癒ゆべき時は来にけり 

    其5 (高浜) 虚子 選

           榛(はん)の木に烏芽を噛む頃なれや雪山を出でて人畑をうつ

    其6 (内藤) 鳴雪 選

           豊葦原の瑞穂の国と天の神がのりたまひたる国は此国

    其7 (梅沢) 墨水 選

           官人の驢馬に鞭撻(むち)うつ影も無し金州城外柳青青

    其8 戯道 (末永鉄巌) 選

           病みて臥す窓の橘花咲きて散りて実になりて猶病みて臥す

    其9 竹柏園 (佐佐木信綱) 選

      寐静まる里のともし火皆消えて天の川白し竹藪の上に

    其10 (石井) 露月選

       望(もち)の夜は恋しき人の住むといふ月の面をながめつゝ泣く

    其11 遠人 (福田把栗)選

        行き暮れし真葛(まくず)が原の風寒み鶉(かっこう)鳴くなり人も通はず 

    其7 「官人の驢馬に鞭撻(むち)うつ...」は、子規が明治28年日清戦争に従軍したときの回想歌である。なお其3には同じく従軍時の回想歌「もののふの屍をさむる人も無し薫花咲く春の山陰」があるが、私は先の戦争でこれとよく似た光景を見ているので、感慨ひとしおである。

    「百中十首」は子規の短歌革新の真価を世に問うものであっただけに、秀歌力作揃いであるが、なかでも其1の「椽(えん)先に玉巻く芭蕉...」は、芭蕉の葉が広がっていく様を鮮やかにとらえていて、写生歌の極致として「百中十首」中の代表作とされている。

    子規が写生を短歌、俳句の基本に据えたのは、友人の画家中村不折から写生の重要性を聞き、それに共感して短歌、俳句についても写生によって、絵空事ではない事物の本質を活写しようとしたのだ。
     
    この年には次のような子規ならではの歌がある。

      世の人は四国猿ぞと笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは
      足たたば不尽の高嶺のいたゞきをいかづちなして踏み鳴らましを
      久方のアメリカ人の始めにしベースボールは見れど飽かぬかも


    ベースボールを野球と訳したのは子規である。ただし、これを「ノボール」とよんだ。これは子規の幼名「升」(のぽる)をもじったものである。

[下]につづく