• 明治32年 (370首)

    この年の作歌数は前年に比べて半減しているが、技術的にはより洗練度を増している。この中から私の好みの歌を5首揚げる。

      臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の晴を喜ぶ
      あたゝかき日を端居(はしい)して庭を見る萩の芽長きこと二三寸
      遠方(をちかた)の花火の音の聞ゆなり端居(はしい)に更(ふ)くる夏の夜の月
      四年(よとせ)寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり
      新しき庭なつかしみ足なへのわれ人の背に負はれつゝ来ぬ

    これらの歌をみると子規が如何に森の緑や庭の花々に心の安らぎを求めていたかわかる。

      人丸の後の歌よみ誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝

    人丸とは万葉の歌聖柿本人麻呂である。子規は27歳で天折した実朝を人麻呂に並ぶ万葉調の大歌人と激賞していて、実朝の歌集「金槐和歌集」(所収700余首のほとんどが22歳以前の作である)の中から学ぶべき名歌として、次のような歌を例示している。

      武士(もののふ)の矢並つくろふ小手の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原
      箱根路をわが越えくれば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ
      大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

    20歳代でこのような気宇壮大な歌を詠んだ実朝の力量恐るべしであるが、数百年間歴史の彼方に埋もれていた実朝の歌集に光を当てて、万葉調の復活をもたらした子規の功績も大きい。

    私も技巧的な古今集よりも素朴な万葉集の方が好きだが、かといって、古今集をくだらぬ集だとは思わない。古今集にも優れた歌は少なくない。その中に「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」という「よみ人知らず」の歌がある。この歌は激動の戦前、戦中、戦後を生きて、八十路を越えた私の人生観そのものである。

  • 明治33年 (641首)

    前年末虚子らのはからいで、子規の臥室の庭に面してガラス戸が入った。

          
      いたつきの閏(ねや)のガラス戸影透きて小松が枝に雀飛ぶ見ゆ
      朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも
      ガラス張りて雪待ち居ればあるあした雪ふりしきて木につもる見ゆ

     
    4年前子規は「いくたびも雪の深さを尋ねけり」と作句したが、もう人に尋ねなくてもよくなったのだ。当時のガラスは貴重品で高価だった。子規はいたく喜び、虚子達に次の歌を贈っている。


      常臥(つねぷし)に臥せる足なへわがためにガラス戸張りし人よさちあれ

    この年は子規短歌の成熟期を迎え、作例も多く名歌満載の年になった。4月子規は「庭前即景」10首連作を発表した。その代表作が次の歌である。

       くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

    これほど流麗かつ具体的に生命力張る春の季節感を詠んだ歌はない。この歌を写生歌の極致として子規の最高作に推す論者もいる。私の最も好きな歌の一つである。

    5月に「雨中庭前の松」10首連作がある。この連作も写生歌の極致といわれる秀歌が並ぶがこのうち3首を揚げる。

      松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず
      松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
      庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず

  • この微細な観察力と集中力は尋常ではない。この連作のほかにも次のような秀歌がある。

      いたつきの枕べ近く梅いけて畳にちりし花も掃わず
      菊の花咲けらく見れば草つゝみ病める心のさびしくもあらず

    この年にはもう一つ子規には嬉しいことがあった。既に前年から根岸の子規庵に新進の歌人香取秀真(ほずま)、岡麓、赤木格堂や俳人の虚子、碧梧桐らが集い、幾度か短歌会を催していたが、その会に子規より年長の文人伊藤左千夫(小説「野菊の墓」の作者)と長塚節(小説「土」の作者)が参加したのだ。

    これによって根岸短歌会の意気大いにあがり、浪漫主義を掲げる与謝野鉄幹の新詩社(明星)と並ぶ革新派の有力勢力となった。

  • 明治34年 (89首)

    この年の作歌数は激減している。これは子規の病状がさらに悪化したからだろう。こうしたなか子規短歌の頂(いただき)をなす、二つの連作を残している。一つは「藤の花」10首連作である。その冒頭の歌が有名な次の歌である。

       瓶(かめ)にさす藤の花ぶさ短ければたゝみの上にとどかざりけり

    この歌は写生歌の典型として高く評価されている。だが、「みじかければ」「とどかない」 のは当然で妙味がないという、否定的評価もある。

    これに対して仰臥して見ている子規は花ぶさが畳の上にとどくことを期待していたか、結局とどかなかったという無念の思いがこもっているという論者もいる。

    私はこの歌は純粋に写生歌だと思っているが、子規の主観の有無にかかわらず、表現の直裁さと格調の高さによって、子規の代表歌とよぶにふさわしい歌だと思うのである。なお、6首目に、

      瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀(とこ)に春暮れんとす

    という歌がある。この歌には子規の主観が十分にこもっている。

    もう一つの連作は「しいて筆を取りて」の10首連作である。

      佐保神(さほがみ)の別れはかなしも
         来ん春にふたたび逢わんわれならなくに
      いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす
      病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも
      世の中は常なきものと我愛(め)づる山吹の花散りにけるかも
      別れゆく春のかたみと藤波の花の長ぶさ絵にかけるかも
      夕顔の棚つくらんと思えども秋まちがてぬ我いのちかも
      くれなゐの薔薇(うばら)ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに
      薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ
      若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり
      いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

    子規はこの哀切窮りない絶望的な歌に、四季の花々を散りばめて、美しく装っている。多くの論者がこの連作を子規一代の絶唱と讃えるが、かってあれほど向意気の強かった子規が、病苦のためにこのような気弱な歌を詠まざるを得なかつた、彼の心情察するに余りがある。

    1首目の「佐保神の別れかなしも…」の佐保神とは、春を象徴する佐保姫のことである。このやや古今風の歌が、この連作の代表作といわれているが、私は2首目の「いちはつの花さきいでゞ…」好きだ。

    この歌は表現が平明で無駄がない。「悲し」という詞ないけれども、十分に深い悲しみが伝わってくる。なお、この歌のほかに「いちはつ」を詠んだ歌を私は知らない。

  • 明治35年 (63首)

    前年「…今年ばかりの春行かんとす」と詠んだ子規に、もう一度春が訪れた。しかし、病状はさらに悪化し、もう庭を見ることもできなくなった。

    そんな子規に伊藤左千夫が紅梅の下に土筆(つくし)を植えた盆栽を贈った。子規はその盆栽を見て、「紅梅下土筆」10首を詠んだ。その中から次の6首を挙げる。

      くれなゐの梅ちるなべに故郷につくしつみにし春を思ほゆ
      つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘にせる
      家の内に風は吹かねどことわりに爭ひかねて梅の散るかも
      鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく
      春されば梅の花咲く日にうとき我が枕べの梅も花咲く
      枕べに友なき時は鉢植の梅に向かひてひとり伏しをり


    前年の「しいて筆を取りて」に比べるとやや精彩を欠くが、6首目の「枕べに友なき時は…」は秀歌である。この歌には寂しいとも悲しいともつらいとも書かれてないが、それらのすべてが「ひとり伏しをり」に含まれており、子規のやるせない寂蓼感がひしひしと伝わってくる。

    この年の9月19日、子規は病苦にさいなまれた35年の生涯を閉じた。

      くれなゐの旗うごかして
      夕風の吹き入るなべに
      白きものゆらゆらゆらぐ
      立つは誰ゆらぐは何ぞ
      かぐはしみ人の花かも
      花の夕顔

    この長歌が子規の白鳥の歌である。

    子規没後根岸短歌会は伊藤左千夫が中心となって、「馬酔木(あしび)」、「アララギ」と名を替えて、石原純、島木赤彦、斉藤茂吉、中村憲吉、土屋文明らが名を連ね、さらに佐藤佐太郎、近藤芳美、岡井隆、五味保義らと続き、平成九年「アララギ」廃刊まで、明治、大正、昭和、平成を貫く日本歌壇の主流を形成していた。子規はその「アララギ」の父といわれている。

    もし子規が健康体であつたなら、どのような生涯を送ったであろうか。このことについて詩人萩原朔太郎は次のように述べている。

    「正岡子規のやうな人間、野心、功名心に充たされた大精力家が生涯を病床に暮さなかったなら、おそらく彼は実社会で活躍し、政治や実業や社会運動やまでにも手を出したらう。病気が彼を不自由にし、文学の天地にのみ専念させた。それ故に彼は雑駁でなく文学者として大事業を成し遂げたのである。」(絶望の逃走より)

    私もほぼ同感である。最後に私が若い頃から好きだった1首を挙げる

      真砂ナス数ナキ星ノ其中ニ吾ニ向ヒテ光ル星アリ (明治33年作)

    私も子規に倣って、吾に向って光る星を見付けようと思う。


    子規記念博物館(松山市)


    【参考文献】
      世界大百科辞典 平凡社
      正岡子規全歌集竹の里歌 岩波書店
      子規の文学短歌と俳句 泉寔 創風社【
      正岡子規の短歌の世界 今西幹一 有精堂
      金槐和歌集 樋口芳麻呂校注 新潮社

    [完]