1. 原始(縄文・弥生・古墳時代)

日本美術の始原は、日本列島に最初に住みついた人々(縄文人)が作った縄文土器である。

これらの土器の製作年代を、炭素の放射能 C14 によって測定すると、紀元前七千年という結果がでた。これを根拠に縄文土器は、世界最古の土器であり、日本独自に発生したものであるという説が唱えられた。

だが、その後モンゴル、シベリア地方で、縄文土器と類似の土器片が発見され、それらの地域文化との関連から、縄文土器の製作年代は、紀元前三千年とする説もあつて、結論には至っていない。

後者の説に依ったとしても、狩猟採集を生業とする原始時代に、鑑賞に値する土器が作られたことは、驚異的である。

しかし、土器が単なる土器であるだけでは、美術品とはいえない。縄文土器が美術品といえるのは、世界に類例のない多様な装飾性にある。

それを代表するのが 「火焔かざり深鉢」など装飾深鉢である。深鉢は採集したものを入れたり、煮沸したりする用具であるが、口縁の上に実用部分より大きい装飾が盛り上がっている。これらの装飾は精巧とはいえないが、力強く精気に充ちていて、達しく生きた縄文人の、情念を象徴しているかのようである。

紀元前三世紀頃、大陸から日本列島に、稲作農業をもたらした人々(弥生人)が渡来した。彼等は北九州から日本列島を東漸し、またたくまに関東地方に進出した。その証拠を示す土器が、東京文京区弥生町貝塚から発掘された。この弥生町の地名が土器の名称となった。

弥生式土器は縄文士蕃のような過剰な装飾はなく、器形の美化に意を注いでいる。後期には後世の陶器のように美しいものも作られた。また器体の肉厚も薄くなり、技術的にもかなり進歩している。

弥生文化は縄文文化から進化したのではなく、二つの文化は全く異質なものであり、従って日本文化の源流は、弥生文化であるといわれている。しかし、縄文人の観念や美意識は、弥生人との交流同化の過程で、弥生人の血の中にも流れていると思うのである。

弥生時代の美術は、土器のほか大陸からもたらされた銅器、鏡、ガラス製品などによって、多様な展開を見せるようになった。なかでも銅鐸は、もとは鈴状の小さいものだつたが、日本では高さ 80cm もある長大なものに変化し、表面に細密な文様を施すなど、大陸文化の日本化を物語っている。

銅鐸のほか鏡、剣、戈なども実用性をはなれ、祭祀関係の儀器や、権威の象徴となっていった。従って弥生時代の美術は、農村共同体的社会の精神的統一を図る、宗教的色彩を色濃く示している。

弥生時代に長くのが古墳時代である。三世紀末から発生した高塚古墳は、次第に大型化し、5世紀には世界に類例のない、巨大な前方後円墳が築造された。

この時代の前期は、まだ弥生文化の残滓を留めていた 「卑弥呼」 の時代であり、副葬品も宗教的呪術的なものであつたが、後期は大和政権が確立した「大王」の時代となり、副葬品は武器、馬具、服飾品や人物埴輪など、東北アジアの騎馬民族文化の特徴を示している。

こうした事実から、江上波夫氏の騎馬民族征服説が提起された。江上説の真否はさておき、この時代に騎馬民族的文化をになつた人々が、大陸から大量に渡来したことは、否定できないだろう。

2. 古代(飛鳥・白鳳・天平)


飛鳥大仏
6世紀仏教の伝来とともに、仏像を主体とする仏教美術が伝来した。

仏教文化はインド・ペルシア・ギリシア(ガンダーラ)・中国・朝鮮の文化が融合したもので、これらの文物を受容することで、日本文化は飛躍的に発展することになつた。

6世紀はまだ大陸製の仏像等を輸入していたが、7世紀には日本でも仏像が作られるようになり、それを安置礼拝する法勝寺、四天王寺、法隆寺など壮麗な寺院が建立された。

日本で最初に作られた仏像は、鞍作部止利が作った法勝寺 (現在は安居院)の「釈迦仏(飛鳥大仏)」である。この仏像は寺院の荒廃とともに、損傷して痛々しいが、相貌は往時の端厳な面影を残している。

止利の代表作は、法隆寺の「釈迦三尊」と、「救世観音」 である。両尊像とも古典ギリシアのアルカイックスマイルを見せる、幽玄荘厳な北魂様式の特徴を示している。

百済観音
法隆寺には 「百済観音」 という、八頭身もある長身の仏像がある。百済という名であるが日本製だという。憂いを含んだ優しい面立ちは、人間的で美しく、私の最も好きな仏像の一つである。

1964年に日本のみならず、アジアで初めてのイベントが2件あつた。一つは10月に開催された東京オリンピックである。もう一つは4月に東京で、5月に京都で開催された、ルーブル美術館門外不出の至宝「ミロのヴィーナス」展である。


私は京都国立博物館中央ホールで、純白の大理石像を見上げた。「ミロ・ヴィーナス」は、他のヴイナス像ほど官能的ではなく、清爽端麗な面立ちで、どの角度から見ても、完壁なフォルムで立っていた。

二千数百年前日本が土偶を作っていた時代に、精美を極めた大理石像を作った、古代ギリシアの文明に感歎しつつ、世界一有名な彫像を見たことに興奮しながらも、一抹の淋しさを禁じ得なかつた。

それは今まで見てきた日本の国宝級の彫像といえども、「ミロ・ヴィーナス」との比較には耐えられないと思ったからである。

私はもう一度日本の彫刻美術を見直そうと思って奈良に行き、興福寺の「阿修羅」、「山田寺の佛頭」、法華時の「十一面観音」、新薬師寺の「十二神将」など第一級の彿像彫刻を見たあと、心の晴れないまま、日本一美しい三重塔のある薬師寺を訪ね、まず東院堂の「聖観音像」を拝した。


聖観音

薬師三尊像

「聖観音」は青年のような若々しい面立ちに、力強さと威厳を備え、深い精神性をみなぎらせていた。

続いて向かった金堂 (当時は再建前の仮金堂)の「薬師三尊像」は、威風堂々あたりを払っていた。本尊「薬師如来」は、圧倒的量感と力感に満ちあふれ、森厳荘重な面立ちに、深い精神性を表現していた。左右の「日光、月光両菩薩」も、やや腰をくねらせた円満な肉体表現のなかに、本尊と同様に深い精神性をあらわしていた。


鑑真像
「薬師三尊像」は「聖観音像」とともに、日本彫刻のみならず、日本美術史上の最高傑作であり、「ミロ・ヴィーナス」にも比肩する、世界に誇る大傑作であると思い、私の心はようやく晴々としたものである。

なお、同時代に作られた唐招提寺の「鑑真像」も、精神性の高い世界的傑作であると思う。

天平15年(743年)聖武天皇は、勅して大佛(慮遮那佛)建立を布告し、757年に像高16.19m 世界最大の金銅佛が完成した。続いて大佛を被う、世界最大の木造建築東大寺大悌殿が建立された。この大佛殿は江戸時代に再建された、現在の大佛殿の 1.5 倍であつた。

飛鳥・白鳳・天平という美しい名を持つ6、7、8世紀は、日本彫刻美術の黄金時代であつた。

3. 中世(平安・鎌倉・室町)

9世紀紀から12世紀平安時代は、芸術文化が日本化(和様化)された時期である。

建築では寝殿造様式が生れ、彫刻では過去の尊厳な佛像様式から円満優美な様式となり、絵画では唐絵に対して大和絵が生れ、文字は漢字から片仮名が作られ、万葉仮名はより簡略化されて、平仮名となった。

この仮名文字は女性に愛用されて和泉式部は艶美な和歌を、清少納言は「枕草子」を、紫式部は、世界最古の長編小説「源氏物語」を書いた。


源氏物語絵巻

この「源氏物語」を題材にして描かれたのが、「源氏物語絵巻」である。この絵は建物の屋根、天井、壁を省略して内部を僻轍で見せている。これはユニークな手法である。

鳥獣戯画
「源氏」のほか「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」、「鳥獣戯画」を合わせて、大和絵による四大絵巻といっている。

「鳥獣戯画」は鳥や兎、猿、蛙などが戯れている様を、達者な筆致でユーモラスに描いている。現代の漫画、アニメの原点がこの絵にあつたのだ。四大絵巻は、平安時代を代表する絵画である。

彫刻は来世の安穏を願う顕教では、阿弥陀如来を中心とする諸佛を、現世利益を求める密教では、大日如来を中心とする諸像が作られた。私が最も優れていると思うのは、湖北・向源寺の 「十一面観音像」である。

この時代は平安な時期ばかりではなかつたが、総合的にはみやびな王朝文化が花開いた時代であった。

13、14世紀鎌倉時代を代表する絵画といえば、神護寺の伝「源頼朝像」であろう。黒い装束の襟元から僅かにのぞく朱色が、端整な頼朝の顔を引きたてている。この格調高い肖像画のモデルを頼朝とすることには異論もあるが、描かれた人物が誰であろうと、おそらく日本の肖像画の最高傑作であろう。


伝「源頼朝像」

空也上人像

彫刻を代表するのは運慶、快慶による東大寺南大門の「仁王像」である。運慶とその一門の作風は、気宇壮大で力強く、写実的にも極めて優れていて、高い芸術性を持っている。

なかでも運慶の四男康勝の「空也上人像」は、南無阿弥陀佛の念佛を、口から六体の小佛像を出して表現している。これは他に類例のない独創的作品である。

しかし、鎌倉彫刻を最後に、世界の彫刻史の中でも高い地位を占めていた、日本の彫刻も次第に光を失っていった。

15世紀室町時代の絵画を代表するのは、水墨画である。水墨山水画は写生画ではなく、禅宗の画僧達が、中国南宗の山水画に倣って、自己の心象風景を描いたものである。従って精神性が高く気品に満ちている。


四季山水図

天の橋立図

この水墨画を代表するのが雪舟等揚である。彼の作品は「四季山水図」、「山水長巻」、「天の橋立図」など六点が国宝に指定されている。一人で六点も指定されているのは、全てのジャンルを含めて雪舟唯一人であり、日本の画家の最高峰として認知されている。

確かに彼の絵は、本家中国の水墨画と比べても、個性的で力強い。だが画風の違いはあつても、基本的な点で中国画とどこが違うのか、私にはわからない。いわんや他の画家の作品においておやである。

テクニックよりもオリジナリティを評価する現代にあつては、雪舟はいざ知らず、室町期以降の水墨画とそれに連なる南画系統の絵は、国際的には思いのほか評価が低い。

[U]に続く