4. 近世(安土・桃山・江戸)

16世紀後期から17世紀初めにかけて、戦国時代を勝ち抜いた信長、秀吉、家康ら天下人は、その権威を誇示するため、豪華な金碧障屏画で城中を飾ろうとした。

その要請に応えて重用されたのが、狩野派の頭領狩野永徳である。永徳は一門の絵師を引き連れて、安土城、大坂城、聚楽第などを絢爛たる装飾画で飾った。


洛中洛外図左
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唐獅子図屏風

桧樹図屏風
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だが、それらはほとんど戦乱で失われ、僅に残った「上杉本洛中洛外図屏風」、「唐獅子図屏風」、「桧樹図屏風」など力強く豪快な作品が、彼の代表作となっている。

狩野派はその後も徳川将軍家の御用絵師として、一大アカデミスムを築き、明治初年に至るまで、400年に及ぶ日本絵画界のバックボーンとなった。その強大なアカデミスムに敢然と挑戦し、永徳をおびやかしたのが、能登七尾から京に登った、田舎絵師長谷川等伯である。

彼の代表作の一つである智積院の「楓図」は、楓の大樹幹の周りに秋の草花を配して、力強さのなかに、みやびな気配を漂わせている。「楓図」と対をなす息子久蔵の描いた「桜図」は、画面全体を桜の花で被っている。この二点の金碧装飾画こそ、派手好みの桃山期を象徴する絵画であろう。

「楓図画像は下記URLをクリックするとみられます
総本山智積院ホームページ http://www.chisan.or.jp/tohaku/store_work.html

「桜図」画像は下記URLをクリックするとみられます
総本山智積院ホームページhttp://www.chisan.or.jp/tohaku/store_work.html


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等伯の最高傑作といわれているのが、「松林図屏風」である。「松林図」は深く立ちこめる霧のなかに、十数本の松の樹が見えかくれしている幽玄枯淡な水墨画である。ここに描かれているのは単なる風景ではなく、湿潤な日本の風土の「気」を表現しているのである。

しかも漢画の影響を払拭して、純日本化されており、日本水墨画の最高峰と言われているが、私は日本絵画史上屈指の作品であると思うのである。等伯なきあと長谷川派は、有能な後継者を失い次第に衰退していった。

江戸初期長谷川派に替って、狩野派に対抗したのが琳派の祖俵屋宗達である。狩野派が武家に支持されていたのに対して、琳派は京の町衆の中から生れ、公家社会との交流のなかで、宮廷文化と融合し、優雅な文化の花を咲かせた。


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宗達も扇絵を商う町衆であつた。彼の代表作「風神雷神図屏風」は、金地の画面の両端に風神、雷神を置いて、中央を広くあけるという独創的な構図で、ダイナミックな躍動感を表現している。 


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宗達にはこのほかにも国宝、重文指定の作品があるが、さらにもう一点代表作といえる「松島図」が、ワシントンのフリーア美術館にある。

私はこの絵を写真でしか見ていないが、対象を大胆に抽象化して、現代アートのような斬新な装飾画である。このような国宝級の名画が海外に流出したことは、残念でならない。

宗達と同じ頃、狩野派では永徳の孫探幽が、二条城などで活躍していたが、その後粉本(模倣)を旨としたため、次第に生気を失っていった。

ところが幕末から明治にかけて、彗星のように現れたのが狩野芳崖である。彼の最高傑作「悲母観音」は、慈愛に充ちた女性的面立ちに、小さく髯を残して威厳を示し、画面全体に甘美な空気を漂わせている。「悲母観音」は狩野派の最後の輝きであった。

「悲母観音」画像は下記URLをクリックするとみられます
東京芸術大学美術館ホームページ http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=1368

17世紀元禄文化が爛熟の絶頂を向えようとしていた頃、京の呉服商雁金屋に、琳派の天才尾形光琳は生れた。彼は放蕩三昧で身代を喰いつぶしたあと、40歳頃から画家として身を立てようとした。


Wikipediaより合成

光琳の代表作「燕子花(かきつばた)図屏風」は、金地に紫色と緑色の二色だけで、燕子花を横一列に音符のようにリズミカルに描いている。

もう一つの代表作「」は、金地の画面の中央の、渦を巻いて大きく広がる流水をはさみ、左側に白梅の若木を、右側に紅梅の老木を描いているが、梅の樹よりも中央の流水のほうに存在感がある。

紅白梅図屏風」画像は、下記URLをクリックするとみられます
MOA美術館ホームページ http://www.moaart.or.jp/owned.php?id=820

これは春の訪れを渦巻く流水で表現したのだろうか。この独創的な二作品は、高雅な京文化を象徴している。

光琳のもう一つの傑作「群鶴図」も海外に流出している。光琳のあと琳派は、酒井抱一、鈴木其一と続き、昭和時代には加山又造が琳派を自称している。

「群鶴図」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
いづつやの文化記号ホームページhttp://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2008/04/post_c57c.html

18世紀江戸後期には、狩野派、琳派以外にも多くの大画家が活躍していた。なかでも円山応挙、与謝蕪村、池大雅、谷文晃、渡辺華山、それに傍流といわれていた伊藤若沖、長沢蘆雪、曽我蕭白らが人気を競い合っていたが、現在では傍流のほうが人気が高い。

その傍流の最たるものが浮世絵である。この浮世絵を代表するのが、美人画の喜多川歌麿、役者絵の東洲斎写楽、風景画の葛飾北斎、歌川広重だろう。


「凱風快晴」(赤富士)」
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浮世絵の中から一点選ぶとすれば、私は北斎の「凱風快晴」(赤富士)」を選ぶ。富士山を描いた絵は無数にあるが、「赤富士」ほど雄大な富士山の絵はない。

浮世絵は日本の陶磁器、美術工芸品とともに欧米に輸出され、ジャポニスムの流行を生むほど日本文化を海外に知らしめたのである。

安土、桃山、江戸時代は、巨匠大家が輩出し、正に百花繚乱日本絵画史上における、黄金時代であつた。


5. 近代(明治・大正)

明治維新以後有史以来東洋文化圏に属していた日本に、西洋文化が津波のように押し寄せて来た。だが日本文化は強い影響を受けながらも、決して西洋文化に呑み込まれることはなかつた。

美術の分野でも西洋画に対して、古来からの日本画が厳然と存立していた。

明治期近代日本画を強力に指導したのが、初代東京美術学校長岡倉天心である。天心は後に日本美術院を創立し、横山大観、菱田春草、下村観山らを育てた。美術院はその後も今村紫紅、速水御舟ら近代日本画を代表する多くの俊才を輩出した。

一方官展系統では川合玉堂、鏑木清方、松岡映丘らが名を連ね、京都画壇では竹内栖鳳、橋本関雪、上村松園らが東京画壇に対抗していた。

こうした京都画壇のなかで、一人超然とそびえていたのが富岡鉄斎である。彼は筆勢にまかせて自由奔放に描きながら、風格のある独自の境地を築いていた。現在南画は不人気であるが、彼の作品は依然として高い支持を保っている。

こうしたなかで、近代日本画を代表するのは横山大観だろう。彼は明治、大正、昭和の三代にわたり、日本画壇の大御所として君臨していた。彼は富士山の画家として有名だが、代表作は「生々流転」か「屈原」(屈原=中国戦国時代の烈士)だろうか。

「生々流転」の画像は、下記URLをクリックすると全図みられます
http://homepage3.nifty.com/okadamasa/enjoypai/YokoMete.html

「屈原」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
個人ホームページ http://kbysk.web.fc2.com/Web02/03_01/Taikan.htm  をお借りする

私は速水御舟の「名樹散椿」が好きだ。この琳派風の絵は、モダンアートのように簡潔で新鮮だ。

「名樹散椿」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
山種美術館ホームページhttp://www.yamatane-museum.or.jp/collection/12.htm

明治初期日本に、西洋画(洋画)なるジャンルが生れた。洋画は江戸末期に司馬江漢、平賀源内らによって試みられていたが、本格的に導入されたのは維新後である。

この洋画揺藍期に有名な「鮭」を描いた高橋由一、「靴屋の親爺」を描いた原田直次郎、美しい風景画を描いた浅井忠らが現れた。

「鮭」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
とおる美術館のページ http://muse.main.jp/arts/00-171.html

「靴屋の親爺」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
東京芸術大学美術館のページ http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=4276

しかし、本格的に洋画の基礎を築いたのは黒田清輝である。彼は官費留学から帰国して、西欧の新しい画風を日本にもたらし、東京美術学校洋画科主任教授として、多くの英才を育て、日本洋画界の父といわれた。

明治、大正洋画界を彩ったのは、何故か佐伯祐三、岸田劉生、中村彝、関根正二ら早世の画家が多い。私が近代洋画の代表作だと思っている「海の幸」を描いたのも、早世の画家青木繁である。

「海の幸」は十人ほどの裸の男と一人の女が、獲物や漁具を担いで行進している絵であるが、若い生命力がみなぎっている。

「海の幸」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
石橋美術館のページ http://www.ishibashi-museum.gr.jp/collections/art_a_04.html 

 
6. 現代(昭和・平成)

現代日本画壇を代表するのは、昭和の三山といわれる東山魁夷、杉山寧、平山郁夫である。

東山の作品は、清澄、温雅、情感豊かで誰にも好まれ、国民画家といわれているが、東宮御所、昭和新宮殿の大壁画を描いた、宮廷画家でもある。彼の代表作は「道」だが、唐招提寺の大障屏画は、現代の山水画として彼の風景画の集大成であろう。

「道」「唐招提寺の大障屏画」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
Rossaさんのページ http://rossa.jugem.cc/?eid=145

杉山の作品は、抜群の構成力で日本画の抒情性を除き、対象物を物質的に描く、モダンアート的感覚が見られる。彼の代表作はスフィンクスを描いた「穹」だろうか、「孔雀」だろうか。私の好きな作品は「水」である。

「穹」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
 http://blogs.yahoo.co.jp/spv3mirokuji/64088703.html 

「水」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
 http://www.polamuseum.or.jp/collection/02_02.php?id=3 

平山の作品は、大地に根を張ったような安定感のある構図で、重厚かつ正統的な画風は、今や国民画家といえる。彼の代表作はなんといっても、シルクロード・シリーズだろう。キャラヴァンが行く荒漠たる風景を、詩情豊に描いている。

「シルクロード」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
http://www.artcreation.co.jp/hirayama.htm#ryuusajoudohen  

 三山のうち東山、杉山すでになく、巨匠と呼ばれるのは平山唯一人となり、淋しい限りである。(注:平山2011年没)

 昭和の洋画界は安井曽太郎、梅原龍三郎の時代であるといわれていた。それほど安井、梅原の存在感は大きい。 


金蓉
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安井は卓越したデッサンカを持つレアリスムの巨匠といわれた。彼の代表作は「金蓉」であるが、風景画も捨て難く、長年雑誌「文芸春秋」の表紙を飾っていた。なお、洋画の登竜門を「安井賞」という。

梅原はバラの画家として有名だが、人物画、風景画にも優れ、画面を華麗に彩った。代表作は「北京秋天」か「浅間山」か、それとも「裸婦扇」か。長命の梅原は安井なきあと、現代洋画界の頂点を極めた。

   「北京秋天」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
   http://www.oida-art.com/buy/xl/7908.html

   「浅間山」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
    http://sohske.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-00aa.html  

   「裸婦扇」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
    http://artprogramkt.blog91.fc2.com/blog-entry-79.html

安井、梅原を始め、巨匠といわれた作家なきあと、平成の洋画界には一人の巨匠もなく、トップ画家といえども、評価額は梅原の3分の1程度である。

その原因は一にかかって国際化の立ち遅れにある。洋画界のみならず、日本の美術界は、国をあげての国際化を図るべきである。

21世紀の今日先進国のみならず、BRICsなどにもコレクターが増加し、古い名画だけでは拡大するマーケットの需要に対応できなく、現代アートに人気が集中している現状である。

そうしたなか、昨年日本の現代アートの俊英、村上隆の等身大男性フィギュア「マイ・ロンサム・カウボーイ」が、16億円で買われ、村上は一躍世界のトップアーティストの仲間入りをした。

「マイ・ロンサム・カウボーイ」の画像は、下記URLをクリックするとみられます
http://www.nextglobaljungle.com/2008/05/16_1.php  

この作品は放出している精液を、頭上高く投縄のように振り回しているという、エロティックなものである。

私はアートにも品格があるべきだと信じているので、このような作品は好きではないが、日本にメジャー級のアーティストが誕生したことは、素直に喜びたいと思うのである。

村上は単なるアーティストではなく、自ら営業活動をするため、130人の社員を擁する、会社を経営する実業家でもある。世界のトップを目指すには、このような戦略も必要かも知れない。

村上の成功によって、日本の現代アートは、世界から注目を集めている。今こそ世界を目指すべきである。日本のアーティスト達の健闘によって、再びジャボニスムの流れが、世界に広がることを、信じたいと思うのである。

(完)