レオナルドとミケランジェロ

 

(1)レオナルド・ダ・ヴィンチ

1452年4月15日、イタリア半島のトスカナ地方の都フィレンツェにほど近いヴインチ村に、一人の男の子が生まれた。その子は地主で公証人をしていた父親と、火遊び相手の村娘との間に生まれた私生児だった。その子が後に万能の天才といわれたレオナルド・ダ・ヴインチである。

彼に関する著書は、世界中に数えきれないほどあるが、2003年に出版された「ダ・ヴインチ・コード」(ダン・ブラウン著)は、全世界で5000万部、日本でも1000万部を超える大ベストセラーとなり、さらには映画にもなって、一大ブームを巻き起こした。このことはレオナルドの絶大な人気の高さの証明でもある。

しかし、「ダ・ヴインチ・コード」は、小説つまりフィクションであって、レオナルドの真実を伝えるものではない。

それではレオナルドの真実はどういうものなのか、これがまた謎だらけなのだ。レオナルドの姓は、一般にはヴインチ村で生まれたのでダ・ヴインチだといわれているが、そうではなくもともとヴインチ家があって、どこで生まれてもダ・ヴインチだという説もある。彼は姓の由来からして謎なのだ。

彼は13歳の頃絵画の修行をするため、フィレンツェで1、2を争うヴ ェロッキオの工房に弟子入りした。当時の工房は、絵画、彫刻、建築など造形芸術のほか、各種工芸品などあらゆる工作物を手がけていて、注文を受けると親方を中心に、大勢の弟子が手分けして制作するのが通例であった。


レオナルドが20歳の頃、ヴュロッキオ工房は、受注した大作「キリストの洗礼」を、例によって師弟が共同して制作することにした。画面の左下に描かれている二人の天使は、右側が師匠のヴュロッキオが、左側は弟子のレオナルドが描いたものだが、出来映えはレオナルドの方がはるかに優れていた。それを見たヴュロッキオは、二度と絵筆を持たなかったという、まことしやかな逸話が残っている。

2007年3月、フィレンツェのウフィッツィ美術館秘蔵の「受胎告知」が東京に来た。その際「レオナルドの大傑作、イタリアの至宝日本に上陸」などと、最大級の賛辞で迎えられた。

この絵はレオナルドが親方の資格を得た、20歳の頃の作品であるが、実はこの絵もヴエロッキオ工房が受注したもので、レオナルドを中心に兄弟弟子達が共同で制作したものである。

私はこの絵を18年前に、ウフィッツィ美術館で見ている。その時の印象では、さほどの大傑作だとは思わなかった。確かに精密には措かれてはいる。写真機の発明されていない当時にあっては、写実的に描くことは必須の条件であった。

ガイドの説明によると、拡大鏡で見ても写真よりも精密だという。 しかし感銘が浅いのだ。大天使からイエス・キリストを身ごもると告げられたというのに、マリアは無表情でその時の彼女の感情が伝わって来ないのである。


 

ウフィッツィ美術館の主役は、なんといってもボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」である。恥じらいながらも輝くばかりの裸身をさらすヴィーナスの美しさは、これぞルネサンスというにふさわしい。

 


それに比べると「受胎告知」は、残念ながら脇役に過ぎない。だが弱冠20歳で「至宝」といわれるほどの絵を描いたのは、レオナルド以外にはいない。

レオナルドは27歳のとき独立して、フィレンツェに工房を構えた。しかし当代きっての技量を認められながらも、仕事には恵まれなかった。

理由はわからないが推測するに、彼は完璧主義者で筆が遅く、納期に間に合わなかったり、いろいろなものに興味を持っているため、途中で絵を描くのを止めたりするので、依頼主に敬遠されたことも一因だろう。

フィレンツェで不遇をかこっていたレオナルドは、30歳のとき新天地を求めてミラノに移住した。その時ミラノ公に当てた自薦状の、10箇条中9箇条が軍事技術に関するもので、最後の1箇条に建築、彫刻、絵も描けると書いてあった。

レオナルドが43歳のときミラノ公の依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂にキリストの最後の晩餐の壁画を描くことになった。これは彼の作品中最大(4.6mX8.8m)のものである。

 


私はこの「最後の晩餐」が彼の最高傑作だったと思っている。

だつたと過去形にしたのは、本来壁画はフレスコ画法(漆喰が乾ききる前に素早く水絵具で措く技法)で描くものだが、彼は遅筆のためその画法ができなく、テンペラ画法(絵具を卵黄で溶いて措く技法)で 描いたたため、絵具の剥落が激しく、後世の粗雑な補修と相俟って、色彩は当初の面影も残さないほど損傷し、見るも無惨な姿になっているからである。

しかし、技法的には失敗作であっても、描かれている内容は、キリストが「この中の一人が私を裏切っている」と言った瞬間の、使徒達の驚き、怒り、悲しみの表情と動作の劇的緊張感、12人の使徒を平 板に並べるのではなく、3人ずつ4ブロックに分ける独創的な構図、完壁な遠近法による画面構成等、どれをとっても他に類を見ない。

私はこの壁画を見たとき、アテネのパルテノン神殿を連想した。パルテノンは廃墟になっているが、黄金比に基づく端正な構造美と、古今無比の精緻さによって、イスタンブールのアヤ・ソフィア、インドのタージ・マハルと共に、世界の三大美建築の一つといわれている。最後の晩餐も絵画の廃墟になっているけれども、世界最高傑作の一つであると思うのである。

最後の晩餐を凌いでレオナルドの最高傑作そして世界一の名画といわれているのが、ルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」である。この絵は彼がミラノからフィレンツェに帰ったあと、51歳頃に制作されたが、彼は死亡する直前まで筆を入れていたという。

 


この絵に関する著書も無数にあるが、そのほとんどはこの絵の謎を解明しようとするものである。モデルは誰か、何故微笑しているのか、何故謎めいた顔をしているのか、何故依頼者に渡さなかったのか等々、専門家がそれぞれもっともらしい解説をしているが、いずれの説も確定的とはいえない。

この絵は、未完成作だという。どこが未完かというと、左手の人差し指だという。私はそんな些末な部分はどうでもいい、問題は顔だ、顔には眉毛も捷毛もない。これは未完ではないのか、当時女性は眉毛を剃り落す風習があったという説もあるが、同時代の他の女性の肖像画には眉毛が措かれているではないか。謎は深まるばかりである。

私はこの絵のオリジナルを観るまで、あまり好きではなかった。モデルの女性を「謎の微笑の美女」というが、それほど美人でもなく、胡散(うさん)臭い女占師のように見えた。この絵が世界一有名な絵であることは認めても、世界一の名画と認めるには抵抗感があった。

その 「モナ・リザ」が1974年に東京に来た。観衆は実に150万人、東京国立博物館開館以来の新記録を樹立した。私もその中の一人として、防弾ガラスに守られた、ポプラの板に描かれた、ひびだらけの絵の前に立った。

「モナ・リザ」は小さい(77cm x 53cm)ながらも貫禄十分に、ただならぬオーラを放っていた。そして不思議なことに、絵の中のモナ・リザが写真やポスターで見るより美人で上品に見えるではないか。それは多分本物はコピーとは違うのだという、先入観の所為だろうと思っていた。

それから16年後今度はルーブルで「モナ・リザ」に再会した。その時は十分に予備知識を仕込んで、先入観に惑わされることなく、技術面を含めてじっくり観賞した。謎めく顔の多面性、やや斜に構えるポーズ、神秘的な背景、超絶的完成度等々絵は精微を極めていた。これは絵画のダイヤモンドだ。

それよりも驚いたのは、東京で見たときと同じように、モナ・リザが美人で上品に見えるのだ。帰国して知人の画家にその話をしたら、知人は「それが名画の名画たる所以だ」と言った。私は十分に納得できないまま「モナ・リザ」を、世界一の名画と認めざるを得なかったのである。

レオナルドは、絵画を芸術の最高の表現と信じ、自身が画家であることを誇りにしていた。にもかかわらず、現存する作品は、未完成作を含め10数点に過ぎず、失われたものを含めても、30点を超えることはないといわれている。それでは絵を描かないとき彼は何をしていたのだろうか。

その謎を解く鍵が、5,000枚とも7,000枚ともいわれる手稿(ノート)の中に隠されていた。

 

彼は絵画だけでなく、あらゆるものに関心を持っており、何かに興が起きるとその研究に没頭して、それを手稿に記録していたのだ。

 

手稿は奇妙なことに、右から左に横書きする所謂鏡面文字で書かれている。その理由にも諸説あるが、彼は左利きだったので、このようにしか書けなかったというのが真相のようだ。

彼は正規の教育を受けていないのに、手稿の内容は芸術、土木工学、動植物学、機械工学、水理学、天文学、解剖学その他当時の自然科学のあらゆるものを網羅しているだけでなく、当時の学問水準を遥かに超えるものであった。

しかし、この手稿が発見され、解読されるようになったのは、19世紀後半であって、彼が万能の天才と呼ばれるのも、それ以後のことである。

ところが2007年3月14日付の朝日新聞の記事によると、彼の発明とされていたものの多くが、同時代の他人の発明にかかるものだというのだ。

私はショックを受けながらも、さもありなんと思った。それは彪大な手稿の全てが、彼のオリジナルだとすると、あまりにも超人的だと思うからである。ただ手稿の一部に、他人のものが混じっていたとしても、なお多く 彼独自の手稿が残っており、万能の天才の名を辱めるものではないと思うのである。

晩年のレオナルドは、ミケランジェロやラファエロが華々しく活躍しているなか、淋しくイタリアを離れ、フランスへと旅立った。そして二度と故国に帰ることなく、1519年5月2日比類なき画聖は、67歳を一期として永久(とわ)の眠りについた。

残されたのは、今はルーブルの至宝となっている、「モナ・リザ」を含む3点の名画と、天才の名を世界に高からしめた、厖大な手稿である。

 


     

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