レオナルドとミケランジェロ
(2)ミケランジェロ・ブオナロッティ

レオナルドと並ぶもう一人の巨匠といえば、ミケランジェロ・ブオナロッティである。彼も絵画、彫刻、建築の才に傑出し、美しい詩も作る万能型の天才であった。
 
彼はレオナルドに遅れること23年、1475年3月6日フィレンツェの南東100kmほどの小さな町カプレーゼに生れた。

13歳のときにフィレンツェ共和国の役人をしていた父の反対を押し切って、画家ギルランダイヨの工房に入門した。

さらに彫刻家を目指して、当時フィレンツェの実力者であったメディチ家が創設した、彫刻養成所に入所した。

その時メディチ家の当主ロレンツォに見出されて、メディチ邸に寄宿を許され、家族同様に遇された。

そこで彼は当代一流の学者から教育を受け、上流人と接することによって、高い教養を身に付けることが出来た。これは一徒弟に過ぎない彼にとって、夢のような幸運であった。
 
彼が24歳のときに制作した、大理石像「ピエタ」(死せるキリストを抱くマリア)は、技術の高さと哀傷のマリアの美しさによって、大評判となった。

現在パティカンのサン・ピエトロ大聖堂に安置されているこの像は、不思議なことに、息子のキリストよりも母親のマリアのほうが若いではないか。

にもかかわらずさほど違和感を感じないのは、なによりも悲しみの中でも甘美な香りを放つ、マリアの魅力によるものだろう。

彼が29歳のときフィレンツェ共和国(当時のイタリアは統一国家ではなく、30前後の都市国家に分裂していた)の求めに応じて、巨人ゴリアテと対決する「ダヴィデ」(ダヴイデ=羊飼いから後に古代イスラエルの王となる)を制作した。

この大理石の巨像(高さ4.38m)は、若い天才の名をイタリア中に知らしめた、彼の代表作といわれている。

私は戦後間もない喰うや喰わずの時代に、古本屋でふと目に止まった「ミケランジェロ」 (羽仁五郎著)を、なけなしの金をはたいて購読した。

半世紀以上も前のことで記憶は定かでないが、羽仁五郎氏はミケランジェロを、民衆側に立つ芸術家、自由と平等と独立の戦士、共和制防衛の英雄であり、それをシンボライズするのが、彼の最高傑作「ダヴイデ」であると論じていた。

私は若い日の血をたぎらせてそれを読んだ。

だがその後に読んだ他の著書のなかには、ミケランジェロは危険がせまるとすぐ逃げ出す臆病者、民衆を蔑む俗物的人間であり、「ダヴィデ」は上半身の力強さに比べて下半身が弱い、アンバランスな失敗作であると評していた。

私は自分の目で確かめるべく、仕事をリタイアするとすぐイタリアに飛んだ。

「ダヴイデ」は確かに達しい上半身に比べて、下半身が優しく見えた。フォルムの完成度もギリシャ彫刻や自身の「奴隷」に優るとも思えないが、闘志を秘めて眉を寄せ、眼光鋭く前方を凝視する、気力溢れる表情は他に例を見ない。

この作品についての評価は、人それぞれだろうが、私は失敗作ではなく、フィレンツェの守護神として、「ダヴイデ」に優るものはないと思うのである。

ミケランジェロは彫刻の第一人者として、数々の名作を残しているが、未完作も数多くある。その原因の多くは、依頼主である権力者の我侭や気紛れによるものである。

彼は権力者の理不尽に激怒しながらも、権力に従わざるをえない悲劇の人でもあった。

そうした権力者中の権力者ローマ法王の強制によって、不本意ながら制作させられたのが、彼の最高傑作のみならず、人類の最も優れた芸術作品の一つである、ヴアティカン宮殿システィナ礼拝堂の、天井画「天地創造」(1512年)と、壁画「最後の審判」(1541年)である。

「天地創造」は旧約聖書の創世記の物語を、40.23m x 13.4mの半円筒形の天井延面積約800uという巨大画面に、364人の大群像を描き出した、一大スペクタクルである。

ミケランジェロはこれを手間のかかるフレスコ画法で、助手も使わず唯一人で僅か4年で描き上げた。

「最後の審判」は14・5mX13・4mの大壁面に、筋骨達しい怒れるキリストを中心に、天国に昇る者、地獄に墜ちる者約400人の亡者が、人間の終末のドラマを演じている、世界最大の祭壇画である。

私は羽仁五郎氏の著書を読んだ若い日から、システィナ礼拝堂を見ることが夢だった。40年後その夢が叶って堂内に這入った瞬間、神韻漂う異次元の空間に迷い込んだような気がした。

私は厳粛な気分に浸りながら、双眼鏡をかざして壁画と20m上の天井画に観入った。これを一人で描いたとは! これは人間の可能性の究極の到達点だ。

ゲーテは言った「システイナ礼拝堂を見ずして、一人の人間がどれほどのことを成し得るかを知ることはできない。」(ゲーテ「イタリア紀行」より)。

ミケランジェロは建築の分野でも、歴史的な作品を残している。ローマの宝冠といわれるサンピエトロ大聖堂の世界最大(径42m)最美の大円蓋は、彼の設計に基づいて後年築造されたものである。

1564年2月18日彼は当時としては珍しく、89歳の高齢で栄光と悲運の生涯を閉じた。葬儀は帝王の礼をもって執り行われた。人々は彼を神の如きミケランジェロといった。

合理的理論家、冷静沈着な理知の人レオナルド。彼は容姿も端正で身嗜みもよく、紳士然としていたが、男色の疑いをもたれていた。

真偽のほどは不明だが、女性には恬淡で生涯妻帯せず、かわりに美少年を弟子又は従僕として、終生身辺に侍らせていた。

喧嘩っぱやく癇癪持ち、喜怒哀楽の激しい情の人ミケランジェロ。彼はその作風から推測して、長身の偉丈夫だったと思っていたが、実は低身で不男だったという。

その上若い時に喧嘩で殴られて鼻がゆがんでいた。彼も男色で生涯妻帯しなかったが、女性に関心がなかったわけではなく、老いてなお若い女性に熱烈な恋をしていた。

このように、二人のタイプは、水と火のように違っていたが、よきライバルとして互いに相手の力を認め合い、競い合って、共にイタリアルネッサンスの頂点にのぼりつめたのである。

この不世出の二人の天才の死とともに、西洋文芸史上最も華やいだルネサンスは終わりを告げた。その後「画聖・万能の天才」或いは「神の如き」と言われた、造形芸術家はいない。


(3)二人の巨匠後

ルネサンス終焉後の西洋美術の流れは、バロック、ロココ、新古典。ロマン主義の時代を経て、19世紀後半に至ると、それまでのアカデミックな画風から脱却し、明るい陽光と鮮やかな色調に彩られた、印象主義(印象派)の時代となる。

近代美術の幕を明けた印象派の絵画は、今でも絶大な人気を誇っているが、当初は嘲笑、罵倒の対象でしかなかった。当今100億円以上の値も付くゴッホの絵も、生前は1枚売れただけである。

この印象派の時代も長くは続かず、20世紀はコンテンポラリーアート(現代美術)の時代へと移ってゆく。

従来の伝統的な美的概念を拒否して、自己の感性による自由な表現を主張する、フォヴイスム(野獣派)、キュヴイスム(立体派)に始まる現代アートの流れは、その後多岐多様な潮流となつては消える、混沌たる状況を呈するに至った。

この混沌の20世紀を代表するのが、スペインの画家パブロ・ピカソである。

彼の絵は印象派の絵を上廻るほど高騰している。彼の代表作といわれているのが、ドイツ空軍の爆撃によって殺傷された、ゲルニカ市民の悲惨を描いた「ゲルニカ」である。

私はこの絵のオリジナルを観る機会を得ず、レプリカしか観ていないが、それでも画面から発する強烈な反戦のメッセージに、深く感銘した。「ゲルニカ」が20世紀最高の名画といわれるのも、むべなるかなと思うのである。

しかし、「ゲルニカ」をルネサンスの両巨匠の作品と比較した場合、どう贔屓(ひいき)目で見ても、両巨匠の作品に優るとは思えない。結局現在に至るまでの500年間に、レンブラント、フェルメールら、レオナルド、ミケランジェロに並んだ者はいるが、超えた者は居ないのである。

(4)日本の美術界

21世紀の美術がどのように進化し発展するのか、見当もつかないが、そうしたなかで日本の美術界の現状は、どのようになっているのであろうか。

残念ながら日本で大家、巨匠といわれる人も、国際的には無名に近い。これは技倆が劣るからではなく、国内に孤立していて、国際的評価の対象になり得ていないからである。

全てのものがグローバル化するなか、日本のアーティスト達も、国際市場に打って出て、世界のアーティスト達と技を競い合わなければ、世界の潮流に乗り遅れることは必定である。

こうした事態を打開して、日本が文化国家として世界に伍していくためには、個々のアーティスト達の努力もさることながら、官民あげての支援が不可欠である。

然るに日本の文化政策の貧困は、目を覆うばかりである。国家予算に占める文化関係予算の比率は、先進国中最下位を争っている。

フランスは文化に多額の投資をし、その果実として観光と文化産業ビジネスによって、投資額をはるかに上廻る収入を得ているではないか。文化は利益を生む産業でもあるのだ。

かつて世界の工場といわれた日本も、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、チャイナ) など新興工業国に、その地位を奪われつつある現状に鑑みれば、今後日本が志向すべきは、文化の発信地として立脚することではないのか。

こうした文化政策について、確固たるポリシーのない現状においても、海外に進出して活躍しているアーティストも数多くいる。

村上隆「キラーピンク」
村上隆

なかでも現代アートの俊英村上隆は、日本のアニメカルチャーを下地にした作品によって、日本の現代作家中最高の評価を得ている。


千住 博

また日本画家でありながら、ニューヨークに工房を構える千住博は、画紙(布)の上から下へ絵具を垂れ流すという独創的な技法によって、国内外の注目を集めている。

建築の分野では、国内のみならず、ヨーロッパ、中近東、東南アジアにも記念碑的な作品を残した丹下健三なきあと、元プロボクサーという異色の経歴を持つ建築家安藤忠雄は、日本的感性に裏打ちされた作品で、世界最高級の名声と地位を不動のものとしている。

ちなみに01・9・11テロの標的となって崩壊した、ニューヨークのワールドトレードセンターを設計したのは、日系二世のミノル・ヤマサキである。これらは一部の事例であって、ほかにも国際的に認知されている、優れたアーティストは少なくない。さらに広い意味でアートといえる、漫画、アニメの分野では、日本勢が世界を席巻している。

このように日本美術界の現状を概観すると、日本美術の可能性は決して少なくはなく、さらなる国際化への戦略が適切に機能すれば、未来は大きく開けると思うのである。

かつて日本の浮世絵が、印象派の画家達に多大の影響を与えたように、日本のアーティスト達が21世紀の世界の美術界をリードし、さらにそうした中から、ルネサンスの両巨匠を超えるような、大天才が出現することを夢想するのである。

「馬鹿者め、それは妄想だ」と笑わば笑え、私はたとえ見果てぬ夢でも大きな夢を見ながら、残り少ない人生を全うしたい。