筆者が、地方文芸誌の「私の戦争体験」特集に求められ寄稿したもの
昭和21年ハルビン滞在時、20歳の時に作った
因みに、横道河子とは、旧満州(現中国東北部)にある地名

 

降りしきる雨の中
日本兵捕虜の隊列が行く
足並みは乱れ ぞろぞろと
藤原義江の歌に
「どこまで続くぬかるみぞ
三日二夜食もなく
雨降りしぶく鉄兜」 という一節がある
状況は似ているけれど
捕虜の兵には
鉄兜もなければ雨具もない
全身 ずぶぬれになって 歩いて行く
行先は わからない

哈爾浜[ハルビン]を[た]って 幾日か
歩いた道程[みちのり]は 如何ほどか
平坦[たいら]な道ばかりではない
起伏の激しい山道や
道なき道も越えてきた
それにも増して こたえたのは
ソ連軍の進攻を 阻止するために
日本軍が 樹を切り倒して塞いだ道
[また]ぎ越えたり 潜[くぐ」り抜けたり
幾度も幾度もくり返えす
そうしたなかで
力尽きた者もいる けれど
助ける者はいない 誰も
皆 己が身を守るのに
精一杯なのだ

夕方 隊列が停った
此処で一泊するのだという
此処は何処だ
「オードーカシだ」 という声がした
横道河子 知らぬ地名だ
左側には山が連なり
右側には 川が流れている
見渡しても家はない
どこで寝るのか
野営せよというのか この雨の中で

八月も半ば過ぎると 北満は秋
夜は 冬のように寒い
雨の中では 寝ることはおろか
焚き火もできない
寒気が濡れた体に襲いかかる
全身が わなわなと震え
石のように硬直する
もう駄目だ これ以上怺[こら]えきれない
その時 何人か 川の中に飛び込んだ
そして叫んだ 「川の中のほうがぬくい」
大勢が それに倣って飛び込んだ
私も一緒に

外よりはぬくいとはいえ
水の中は冷たい
冷感が 体の中に浸み込んでゆく
骨の髄まで凍てついてゆく
涙が止まらない
鼻水も垂れる
それを雨が洗い流す
私は思わず 心の中で叫んだ
「神様 お助けください」
願いも空しく 状況はさらに悪化する
もう 神にも見放されたのか
私は 天に向かって唾を吐いた
地獄は あの世にではなく
この世にあったのだ
戦争に負けるということは
このようなことなのか

次第に意識が朦朧としてくる
このまま死んでしまうのだろうか
死ぬのなら 死ねばいい
そのほうが楽だ
それにしても まだ二十歳
人生 これからだというのに
もう 死ななければならないのか
こんな惨めな姿で
父母の顔が浮かんでは消える
暗闇のスクリーン
いつの間に 雨が止んだのか
せせらぎの音が聞こえてくる
そのせせらぎの中に
意識が溶け込んでいった

どれほどの時が流れたのだろうか
まわりの騒[ざわ]めきに
意識が醒めた
なんと 私は川の中で一晩中
寝ていたのだ うとうとと
よくもまあ 命があつたものだ
流されもしないで

朝 食もなく
濡れた衣服を干す間もなく
また 行進が始まった
のっそりと 隊列が動きだす
足並みは さらに乱れ だらだらと
雨後の道は歩きにくい 殊更に
空腹と疲労が体力を蝕んでゆく
落伍したら もうそれまでだ
気力と惰性で歩いて行く
行先は わからない

山麓に 野菊の花が咲いている
紫色の可憐な花が
野には 名も知れぬ草花が
山には 赤い実をつけた樹が 点々と
目に映るものは
美しいものばかりではない
道端には 日本軍車柄の残骸が
一台 また一台
行く先々に転がっている
林には 日本兵の屍が
あたりに腐臭を放っている
獣や鳥にまで見捨てられて
これは 他人ごとではない
明日は 我が身か
そんな思いが 脳裏を過[よ]ぎる

思えば 日本軍の兵士となつて
まだ三月[みつき]
戦の庭に立つこともなく
一発の銃弾を撃つこともなく
今 ソ連軍の捕虜となり
知らざる道を引かれて行く
一体 どこに行くのか
どんな運命[さだめ]が待っているのか
行先は わからない
皆 黙々と歩いて行く
重い足を引きずりながら

 

詩 「横道河子」 あと書

私は小学一年生のとき、交易業を営む両親に連れられて、旧満州国奉天市(現中国遼寧省瀋陽市)に渡った。奉天市は旧満州最大の都市で、日本人も多数居住していた。

1945年(昭和20年)5月初旬当時学生だった私に現役入隊令状がきた。入隊したのはソ連との国境を流れる黒龍江に近い孫呉駐屯部隊であつた。

入隊の翌日教育係の下士官が、「本隊は誉れ高い第一師団の部隊である。その栄光を汚さぬように奮励努力せよ。なおここは冬には氷点下50度にもなるから、今のうちにしっかり体を鍛えておけ」といった。

最初は基礎的な実地訓練のほか、軍人の基本的使命、兵営内でのマナーなどについて指導があり、ひと月後教育の成果を問う学科試験があった。
 
6月初旬初年兵達は兵営を離れ、ソ連軍の進攻に備えて、黒龍江に面した山に暫壕[ざんごう]を振ったり、木材を切り出したりした。これは体力のない私には耐え難い重労働だった。

兵営に帰ると地雷を背負って戦車の下敷きになる訓練が始まった。人間地雷になつて敵の戦車を爆破するのだという。私は死に直面する日が近いことを予感した。 

7月初め私と他中隊の古年兵の2名が、チチハルの第4方面軍司令部に派遣を命ぜられた。何故かと思っていたら、教育係の下士官が試験の結果だといった。ひと月前の試験が私に思わぬ幸運をもたらしたのだ。

司令部に着くと他部隊からも数十人集まっており、任務は暗号技術を習得することだった。ソ連の侵攻に備えて、暗号要員を増強しょうとしたのだ。
 
8月9日ソ連筆が黒龍江を渡って侵攻してきた。司令部はチチハルからハルビンに移動した。その際私を含む10人ほどが司令部要員となり、他の受講者は原隊に復帰した。

私が任務につくや否や悲しい極秘電報が飛び込んできた。私が入隊した孫呉駐屯部隊が、勝山[かつやま]でソ連軍と応戦し、全員戦死したというのだ。勝山は私達初年兵が塑壕を掘った山だ。
 
共に壕を掘った戦友達の顔が眼前に浮かび激しく胸が痛んだ。 

その後も悲報が相次ぐなか8月15日を迎えた。私は敗戦の悔しさと、死ななくてよかったという気持が交錯して、なかなか心の整理がつかなかった。

数日後進駐してきたソ連軍に武装解除され、屋根も側板もない床板だけの貨物列車に乗せられ、東方面へ送られた。途中で列車から降ろされ徒歩行進となった。

詩「横道河子」はそのときの状況を書いたものである。


横道河子の位置

行先は牡丹江[ぼたんこう]であつた。捕虜収容所は日本の陸軍病院跡で、私達が到着すると、すでに数千人の先客が居て過密状態だった。寝るときは横を向かなければならなかった。

食物は捕虜になって以来一度も支給されたことがなく、自前で調達しなければならなかった。金[かね]を持っている者は闇商人から買えたが、持たない者は持っている者の情けに頼るしかなかった。

一番困ったのは水だ。水道は出ず先客達が雨水をためる大きな穴を掘っていたが、その水も枯れ遂には構内下水道のマンホールに溜まっている水まで利用した。ボイラーの水を見付けたときは、まるで甘露を得たように喜んだ。
 
こうした劣悪な環境の中では健康を保つことはできず、皆腹をこわしシラミをわかせていた。そうしたなか多くの者が落命した。死体にはすぐ蛆[うじ]がわいた。なかには息のあるうちに姐がわいている者もいた。私はこうした状況を忘れまいと、後日次のような詩を書いた。 

高梁[こうりゃん]の茎をかじり 下水道の水を飲む
古新聞を体に巻いて 寒さに耐え
監視兵の滅多撃ちに戦[おのの]きつつ
糧を求めて大豆畑を這う
夜 隣りに寝た戦友[とも]
朝 冷たいむくろとなつて横たわる
されど鎮魂の詞[ことば]もなく 葬礼もなし
飢餓 病疫 略奪 殺戮
牡丹江捕虜収容所 生地獄
屈辱と悲惨の極みの思い 忘ることなし 

収容所にはウラジオストック青森経由で、捕虜を日本に送還するという噂が流れていたが、私は信じなかった。当時日本にもソ連にも大量の人員を輸送する船舶があるとは、思わなかったからだ。

また捕虜のなかには現地召集の人もいて、現地に家族を置いて、自分だけが日本に帰ることに苦慮していた。

私達の班にも脱走して家族の居るハルビンに帰ろうと計画している人が3人居た。私もハルビンに満鉄社員と結婚した姉が居るので、計画に加えてもらつた。
 
9月下旬の深夜4人は脱走を決行した。牡丹江からハルビンまで約300kmの道程を、昼は物陰にかくれて夜歩いた。夜は寒くて寝られなかったからだ。

食物はこつそり畑の作物を頂いたり、柔らかい雑草を食べたり、青大将を見付けると棒で叩き殺して焼いて食べた。喉がかわくと玉萄黍の茎の汁を吸った。
 
何日目かに横道河子の川縁を歩いた。川は何事もなかつたかのように流れていた。
 
こうしてハルビンにたどり着いたのは、一ヶ月後の10月下旬だつた。私は3人と別れると、一路姉家族の住む松花江近くの満鉄社宅に向かった。途中、所どころに赤旗が立っている家があつたが、それはソ連軍に接収された建物だと判った。
 
ようやく社宅の前に着くと、入り口に赤旗が立っているではないか。私は呆然としてその場に立ち尽くした。しばらく思考が停止していたが、ふと二階の窓を見ると、浴衣地のオシメが干してあつた。私は姉家族の在住を確信して、玄関の戸を叩いた。

姉は最初警戒していたが、私だとわかると驚いて戸をあけてくれた。赤旗はソ連兵に襲われないように、用心のため立てていたのだ。
 
1946年(昭和21年)10月、私は無事に帰国を果たした。私は幸運だった。私より不運だった人は何百万人もいる。その人達のためにも、平和な世界を構築する努力を、怠ってはならないと思うのである。

大正15年(1925年)生