感想文

 

  • 感動的な文章読ませていただきましてありがとうございます。(so)

  • 大変な生命力の持ち主ですね。

    インターネットで地図を見ながら読みましたが、地名が戦前と変わっていますので大体このようなところだろうという想像でよませていただきました。

    アムール河、松花江など河に興味がありますのでいちど行ってみたい所ですがこのような悲惨な体験をされた方々がたくさんおられたのですね。 (om)

  • 確かな記憶で これほどの文章を書き残して生きて来れた人生、本当に感心するばかりです。先人の生き様、私の年でやっとかすかに記憶に残っている事です。

    子供たち、孫たちの年代、考えられない、時代が有ったことすら、知らない年代...(ek)

  • 悲惨な戦争の事決して忘れてはならない事です、過ぎてゆく時間を忘れ、目を潤ませながらじっくりと読ませて頂きました、有難う御座いました。(yy)

  • 文は一気に読んでしまいました。感激しましたし、こういう話ができる人が次第に減ってきていることが残念ですし、日本のこのような歴史を特に若い人たちに、いや政治家に、教えなければならないと思います。こういう多くの先人たちの犠牲の上に今の日本があると言うことを。(ss)

  • これほど生々しい、優れた体験談が半世紀以上もの間埋もれていたものだと驚かされました。それにしても叔父さんは相当な文学青年だったのですね。生死のなかをさまよう様が見事に描かれています。私も感銘を受けました。 (at)

  • 素晴らしい詩をお送りいただきましてありがとうございました……
    現在のような平和ボケに自分自身、深く反省させられました……(tt)

  • 叔父さんのお話は似たような話を私も以前は良く聞きました。私の叔父にも中国に進軍した話を良く聞かされました。だんだん戦争を知らない人が増えてくると、このような話もバーチャルな感覚で読む人も多くなることでしょう。(ts)

  • 拝見しました。一読後、声も出ませんでした。悲惨ですね。何度も読み返しました。

    私は当時のソ連のやり方に汚さを感じているのです。日本の高官が終戦斡旋に中立を保っていたソ連に斡旋を依頼していたのに、逆に戦争の火蓋を切ってきた。日本の戦争能力が無くなっているのを知りながら。その上、戦闘が始まったら捕虜に食事も与えないとは、酷いことをする国ですね。

    当時の日本の指導者も酷い。国力もないくせに連合国と戦闘を開始するとは。思い上がりだったのでしょうか。苦しむのは国民ではないでしょうか。

    今、私は朝鮮最後の国母「ミンピ」を日本の公使が中心になって暗殺した事件の本を読んでいるので、余計に感じるのです。叔父さんは大変なご苦労をされたのですね。平和を保つ努力が一層大切だと感じました。有り難う。(et)

  • 横道河子(詩)拝見させていただきました。戦争の恐ろしさに身震いし、あまりにも、むごく途中から文字がかすんでしまいました。心にズシーンとくる詩です。一人でも多くの人に読んでほしいものです。

    震災・津波・原発に苦しんでいる人たちに思いがはせます。悪夢のようなつらい生活を強いられ、これは現在版の戦争ではと。皆でできることから手を差しのべ一日でも早い復興を願うのみです。

    私は終戦の年に生まれ、幼いとき母から戦争の話をよくきかされました。食糧がなくなり「さつま芋の茎まで食べた」「B-29が飛んでくると防空壕へ逃げた」・・・・・・。漠然と戦争は怖いと思ったものでした。今の平穏な生活がどんなにありがたく贅沢なことか考えさせられました。ご紹介ありがとうございました。(mk)

  • 拝読しました。叔父上は地獄をご覧になったのですね。

    第2次世界大戦の犠牲者(行方不明を含む)は、世界計=5,355万人、内訳は順に、@ソ連=2,000万人、A中国=1,000万人、Bポーランド=600万人、Cドイツ=550万人、D日本=310万人の由。内、一般市民の犠牲者は、世界計(犠牲者の60%)=3,200万人、日本=80万人(3,200万人の2.5%)とか。

    罪もないのに巻き添えになった一般市民の犠牲については、日本だけがつらかったのでなく、ソ連、中国、ポーランドなど他の諸国の一般市民もつらかったことでしょう。

    死は地獄、生還も地獄。戦争を美化する人は嫌いです。平和であってほしいです。(ka)

  • 満州でロシアの捕虜となられた叔父さんの話は記録として伝えてゆく必要があると思います。シベリアへ連れていかれ重労働を強いられた人の話は話としては十分聞かされ実に過酷な仕打ちを受けたものだと心も痛み憤慨もしています。

    そして寒さと飢えとひどいノルマを課せられて重労働のなかで多くの人が死んでいった半面人間の持つ浅ましい人間性を発揮してロシア人に取り入り同じ日本人を痛めつけた人間もいたと聞いています。これは一部の人間でしょうがどこにでもいるのも事実です。

    いずれにしろMight is Right.であることは昔も今も変わりありません。捕虜を長い間抑留して重労働に使役することは明らかに国際法に反していますが国際法違反だといった所で勝者にはなんの痛痒もありはしません。東京裁判しかりです。戦犯なんて後付けの理屈でしかなくもっとも罪深いのはトルーマンとスターリンです。

    ただこれを言っても勝者にたいしてはなんの効果もありません。

    しかし北方四島の不法占領と不可侵条約違反については日本は事あるごとに世界にむけて発信し続けるべきだと思っています。

    日本は平和ボケと経済慾ボケのせいで有効な外交政策をとってきませんでした。今も同様です。

    対米外交も外交と安全保障はアメリカの思うとうりで自主的ではありません。日本はアメリカの保護国にすぎません。小生は自主独立国になるべきだと念願していますが当分駄目のようです。(ks)

  • ご紹介の文章は私にとって余りにもインパクトが強く、また「人間の生と死」をこれほど身近に考えたことがない私にとって、何と感想を述べてよいか、言葉が見つかりません。そして生きていれば93歳になる父が生前、幼い私に、戦時中満州に赴いたことがあり、大変な経験をした、と語ったことを思い出しました。

    父は私が成人してからは戦争の話をあまりしませんでしたが、おそらく自分の弟が戦死した、という辛い思い出を抱えながら、私の様な戦後生まれの娘に敢えて戦争というものを語るには、言葉では表現できないものがあったのだろうと推測します。

    介護施設の訪問を始めて4年目の現在、数か月に一度ほど、戦争体験を語ってくださる老人とお会いすることがあります。通常はあまり話されなくても、ひょんなことから戦争の話になると、人が変わったように雄弁にかつリアルに語られ、限られた時間内での活動を強いられている私にとって、どこでお話しに区切りをつけようか、本当に困ることがこれまで数回ありました。

    驚くほど残酷な話を伺ったことがありますが、今回の「横道河子」ほど衝撃的ではありませんでした。

    このような感想しか伝えることができませんが、今回の震災が私達に伝えたメッセージに共通するものがあるのではないか、とも思っています。
    今回はお知らせありがとうございました。(ky)

  • 叔父様の詩、スゴイですね。極限状態を上回るような壮絶な艱難辛苦に圧倒されました。その描写は迫力があり、息を吞むばかりです。よくぞまあ堪え抜かれたものだと、想像を絶します。

    半世紀前の事とはいえ、本当にご苦労さまでした。昭和20年5月に現役入隊令状が出た由ですが、実は同年同月に私の叔父が学徒出陣でフィリッピンで戦死しました。一回り上の兄のような存在であったので痛恨の極みでした。改めて感慨を催しました。(kk)

  • 野田進さんの横道河子を読ませていただきました。想像を絶する体験をされた野田進さんの詩に絶句しました。言葉がありません。

    今の日本はこのように苦労された多くの先達によって 平和な毎日がもたらされてきたことを知るべきですね。

    深い感銘をうけました。 と同時に 私ごときが安っぽい感想を述べるのもはばかれる気がいたします。・・・・・(uu)

  • おじさんの詩読ませていただきました。船橋市北老人福祉センターに退職後カウンセラーとして2年間勤めていました。その時満州で終戦を迎え、捕虜となりシベリアに送られた方のお話を複数伺いました。

    この詩を読んで、あらためて戦争をはじめ、命令した方々の命に関する価値観の軽さ、弱者への過酷な結果に激しい憤りを覚えました。 こういう指導者を選んではいけないと思いました。ありがとうございました。(ns)

  • 野田さんは、大変な経験をされたのですね。よくぞ生きて日本に帰還されたものです…。また、克明な記録(詩の形で)を残されておられることに敬服しました。

    小生は戦争で父を失いました。昭和16年夏?(小生、1歳と数ヶ月)に出征し、しばらくの間、満州にいましたが、昭和19年2月、ニューギニアで戦死しました。(30歳でした)

    手元に小生宛の軍事郵便(はがき)10枚と父のサイン入りの観光記念品「満州大観写真帖(原色版32景)」があります。久しぶりに、はがきを読み、写真帖を眺めました。 野田さんの詩などに出てくる地名(奉天市、チチハル、ハルピン)の写真が写真帖に載っています。(as)

  • 叔父上の詩と文章を大変感銘深く読みました。捕虜収容所から脱走して一ヶ月も掛けてハルピンの姉上と再会した時の感動は如何ばかりであったかと胸が熱くなりました。

    今月号(5月特別号)の文芸春秋の巻頭随筆に立花隆が興味深い文章を書いています。 彼は終戦時に北京で4ヶ月半の収容所暮らしをして大変辛い目に会った様ですがトラウマ体験がその後の人格形成にプラスに働くと言う「PTG」(ポスト・トラウマ・グルース)が最近注目を集めているのだそうです。(ns)

  • 叔父上の若かりしときの詩「横道河子」を拝読しました。戦時・戦後を生きた者には、それぞれ言い知れぬ体験があったと思いますが、死が待ち受ける過酷な状況下で作詩できるとは、随分とタフな精神をお持ちだったのでしょうね。描写が感情に流されず、冷静であるのに驚かされます。

    恐らく、当時の満州の地に身を置いたことのない人にとっては、想像のできにくい描写かも知れませんが、すんでのところで残留孤児になる運命を脱しえた小生にとっては、大いに頷ける内容と解説でありました。

    私は関東省(当時)図們の生まれ。96年にふるさと探訪を果たし、出生病院の旧満鉄図們病院を訪ねました。図們は豆満江を挟んで北朝鮮を望む国境の町です。父は営林署勤務でした。(sh)

  • 貴兄叔父上の著作を拝読しました。地獄は、あの世にではなく、この世にあったのだという凄惨な現実を体験され、生還されたことに感銘を受けました。地獄の体験がその後の叔父上の人生にどのような影響を与えたのでしょうか・・・。(sm)

  • 早速横道河子をダウンロードして拝見いたしました。私のもっとも親しい友人ym(故人)さんは、大正14年生まれですが、九州大学を出て志願して幹部候補として陸軍に入り、満州でロシア軍の捕虜となりタシケントでレンガ作りと教会作りに従事し、口助の日本人捕虜に対する扱いに抗議して、ロシア軍の将校をシャベルで半殺しにし、軍法会議でシベリアに流刑になり、生還した人物がおります。

    ymさんはシベリアに4年流刑され、日本人の同房は1人もいなく、4年間全く日本語は話さなかったそうで、シベリア鉄道建設に従事したそうですが、ロシア人をロ助と呼び、シベリアの寒さと飢え、人恋しさに苦しんだようです。

    昭和24年帰国、その半生を手記として残しました。口癖に俺はシベリアで死んだから後の人生はオマケだ言い、仕事と酒に人生を送り、平成10年頃に一子を残し、旅たちました。葬儀委員長を私が果たしましたが、ロシア人の野蛮さはいつも聞かされました。

    私の友人も叔父様と同じように満州で武装解除され、屋根のない列車に乗せられ延々と送られたそうです。しかし、ロシア人を捕虜の身で半殺しにしたとはあっぱれな日本男子ですね。(kn)

  • 戦争も知らず豊かな成長期を思いのままに70年過ごさせてもらった、そのことに何の謙虚さもなくしてしまっていた。

    横道河子読ませて頂いた、「父よ貴方は強かった.兜を焦がす炎熱も、適の屍と共に寝て、ドロ水啜り草を噛む、荒れた山河を行く千里、よくぞ撃って下さった」が蘇りました。

    お姉様の家の赤旗を見た時の茫然自失、如何な物であったろうか。(ty)

  • さて、紹介していただいた『横道河子』の悲惨さをこれから以後は当事者やその家族にできるだけ味あわせないためには、(不幸にも・残念ながら)あたくしたちは『事が起こっても打つべき手段を考えもせず、実行もしない』ことに平然としてきた民族・国民の一員であることを忘れないでいることが必要なのかもしれません。

    例えば、『領海を侵犯されても反撃できぬ自衛隊員は涙を飲んでいる』とか『ミサイルをわが国に向けられているのが分かっていても、先方からの攻撃がないとドーシヨウもなく危険極まりない状況だ』というような理屈から、仮に、反撃できるような態勢を新たに作ったら相手かまわず殴りかかって数知れぬ『横道河子』の悲惨さを作ってきた民族・国民の一員であることを忘れてはならないなと思います。(kt)

  • 叔父さんの詩作『横道河子』を拝読、これまで知らなかった叔父の終戦秘話と言うか、残酷なサバイバルの実体験に触れ、この二日間、何もパソコンに向かうことが出来ませんでした。これが叔父さんの二十歳のときの作品で、この詩を最近になって発表する事にした心境を今、推し量っております。
     
    作品の良し悪しをとやかく言うより、詩に込められた体験----終戦三ヶ月前の召集から敗戦、露満国境への強制収容、そして仲間三人との生死をかけた脱出行など、一遍の ドキュメンタリー作品になっています。しかも、詩作によるドラマチックな表現によって、より激しく読者に迫ってきます。
     
    もし自分がこれと同じような体験をしたとしても、叔父さんのようにうまく表現出来るだろうか。いや、たとえ小説として日記風の作品を書いても、読者にこの『横道河子』ほどの訴求が出来るとは到底思えません。たしか山崎豊子が『不毛地帯』でシベリヤでの強制労働を描写しておりますが,それに勝る『横道河子』であると思います。(ky)

野田進より謝辞

横道河子感想文を有り難く拝見しました。六十年前に書いた拙い詩に過分のご感想を頂きまして面映ゆく恐縮しています。

私は、身辺の出来事や感じたことを、備忘のために記録してきました。横道河子もその一つですが、それはあくまでも自分自身のためであって、家族にも見せたことはなく、まさか公表するなど夢想だにしておりませんでした。

友人から私の戦争体験を書けと、強く請われたもので、世間に私の体験をひけらかすような意志は毛頭なく、横道河子のあと書きの末尾に

「私は幸運だった、私より不運だった人は何百万人もいる。その人たちのためにも世界の平和を構築する努力を怠ってはならないと思うのである。」

と書きましたが、それが私の趣旨だと理解していただければ有り難いと思います。

野田 進