1. 土 器

    焼物は人間が日常生活を営むために必要不可欠なものである。それ故に文明の発生とともに世界各地で焼成されてきた。

    日本列島でも狩猟採集を生業とする人々によって、素朴ながらも多彩な装飾をもつ用器や、怪奇な容貌をもつ土偶が作られた。

    これらの土器の表面に縄目文様が施されているので、この時代の土器を縄文式土器という。

    縄文土器の始源は学者によって、紀元前3千年から1万年まであって、正確な年代を特定することはできないが、いずれにしても世界最古級であることに変わりはない。

    数千年にわたる長い歴史の中で、単純な煮炊用の深鉢などから次第に複雑なものへと変化し、中期以後には世界に類例のない複雑で豪勢な装飾をもつ「火焔型深鉢」(考古分類で国宝指定十日町博物館蔵)(左図)や呪術的土偶など縄文人の情念がほとばしるような逸品が作られ、縄文土器は世界の原始美術のなかでも、一際光彩を放つ造形物である。

    紀元前3世紀頃大陸から稲作農業を日本列島にもたらした人々によって、縄文土器とは異種の土器が作られた。この土器は東京文京区本郷弥生町で最初に発見されたので、弥生式土器と命名された。

    弥生土器は稲作農業の拡がりに伴なつて、九州から日本列島を東漸し、北海道を除く列島全域に浸透していった。

    弥生土器は縄文土器と同じ野焼きの軟質土器であるが、成型技術は進歩して器体の肉厚が薄くなり、器種も鉢、カメ、壷、高坏(たかつき)などと多様化した。

    縄文との差が一見して判るのは、まず器体の色が明るくなったのと、装飾がほとんどなく円く豊かな曲線をもつ、シンプルで穏やかなフォルムになったことである。

    初期のものは素朴な自然体であつたが、中期以後は実用の器のなかにもフォルムを美化しようとする意識が芽生え、「朱彩壷」(長崎県出土)や「水差形の壷」(奈良県出土)など、後世の美術工芸品にも劣らぬ洗練された土器も作られた。

    このようなシンプルかつエレガントな土器を作った弥生人の感性は、現代に続く日本人がもつ美意識の源流ではないかと思うのである。

    弥生土器は4世紀以降土師器[はじき]と名を替えて、古墳、奈良、平安以後も作り続けられた。だが製作手法は向上したものの、フォルムの美化にはあまりこだわらなかったようだ。私は日常容器で弥生土器より優れた土師器を見たことがない。

    4世紀から5世紀にかけて巨大な古墳が築造されたが、その副葬品として大量の埴輪が作られた。始めは単純な円筒形のものだったが次第に動物、人物、家形、器物など各種の埴輪が作られた。

    このうち人物埴輪の「武装男子立像」(東京国立博物館<東博>蔵)(右図)が考古の分類で国宝に指定された。日常用器では見るべきものがなかつた土師器は、埴輪を作ることによって国宝を生んだ土器となったのである。

    4世紀末、古墳時代に朝鮮半島から新しい焼成技術を持った工人が渡来してきた。彼等がもたらした技術で焼かれた土器を須恵器[すえき](下図)という。

    須恵器はロクロによって成形し、穴釜で千百度以上の高温で焼かれた我が国では画期的な焼物で、硬質で精度が高くシャープに仕上げることができた。

    須恵器は12世紀、平安時代末期まで生産されていたが、主として焼かれたのは祭器であつた。

    その後各地に須恵器窯が築かれると、日常用器も作られるようになったが、当時須恵器は高級品で上流の人びとの利用に供され、庶民は依然として土師器を利用していた。

    土師器(右図)」は後にカワラケとなって、少量ながら現在でも作られている。

    外国の焼物の歴史をみると、新しい技術の焼物が出現すると、古い技術の焼物は廃れ、単線的に発展するのが通例であるが、日本では新技術の焼物が生まれても、旧技術の焼物が廃れることなく、複線となって共存している。

    こうした現象はその後も続き、施釉[しゆう]陶器が現れても無釉[むゆう]陶器も作り続けられていて、日本の焼物文化の幅を拡げ、豊かなものとしている。

    再び須恵器に戻ろう。須恵器は還元焔(くすぶった焔)で焼かれているので器体が灰黒色になり、酸化焔で焼かれた弥生土器のように温かみがなく、精巧に作られていても冷たく、どこか異国的でなじめないが、自然釉がつららのように垂れ下がつたものは美しく、重要文化財(重文)になっているものもあり、その後に続く無釉陶器の母体になっているのである。

  2. 中世の陶器

    7世紀後半、奈良時代に日本で最初の施釉陶器が作られた。この陶器は緑色に発色するので緑釉といった。この技法を基にして8世紀には唐三彩を模した奈良三彩が作られたが、奈良末期には姿を消した。

    緑釉陶は平安時代にも作られていたが、本格的な施釉陶器は9世紀後半に猿投窯[さなげ](愛知県)で焼かれた灰釉陶(左図)である。

    猿投窯は須恵器窯を改良した窯で、中国陶磁を模した完成度の高いフォルムの灰釉陶や緑釉陶を生産していたが、何故か11世紀末には施釉陶の生産をやめて、再び無釉陶作りに戻った。

    その他の窯場も施釉陶作りをやめたので、日本から施釉陶器の生産が消滅した。

    13世紀、鎌倉時代は小山富二夫氏の提唱によって、六古窯の時代といわれている。六古窯とは瀬戸、常滑[とこなめ]、備前、丹波、信楽[しがらき]、越前の古窯である。だが六古窯以外にも小規模な古窯は各地にあつた。

    これらの古窯のうち唯一瀬戸で11世紀末に途絶えていた施釉陶が復活した。手本にしたのは当時大量に輸入されていた中国の陶磁器である。

    製品は灰釉又は鉄釉の壷、瓶子、仏花器など多様なものが作られた。これらの製品を「古瀬戸」という。品質は中国製に遠く及ばなかったが、不効率な窯で悪戦苦闘しながら、施釉陶器作りに挑んだ瀬戸の陶工達の努力が現在世界最優の日本施釉陶芸の源流となったのだ。

    瀬戸を除く古窯は依然として無釉陶器を作っていたが、驚いたことにはロクロ成形をやめて、縄文時代と同じ製法の粘土を巻き上げる紐づくりに戻ったのだ。

    これは庶民が求める頑丈な焼物を作るには器体を分厚くする必要性から、ロクロは成形に不向きだったのだ。

    製品は壷、カメ、鉢、すり鉢など日用雑器であるが、長時間焼きしめたため灰が器面に降りかかつて自然釉となり、一つひとつ違った表情を作って、古拙の美ともいえる趣きをみせていて、就中[なかんずく]壷は愛好家の垂涎の的となっている。

    こうした古陶を代表するのが国宝「秋草文壷」(高約四十センチ)(左図)である。この壷は平安末期に愛知県の渥美(常滑ともいう)で焼かれ、昭和17年に川崎市で出土した骨壷で、当時5円で買われて慶応大学に納まった。

    「秋草文壷」は無釉陶器(須恵器に分類する学者も居る)では珍しく端正なフォルムで、胴の部分に風にゆらぐススキが、頚と肩の部分に柳の枝やトンボなどが、柔らかい和様の筆致で線彫りされていて、その上を自然釉が被い、威風堂々王者の風格を呈している。

    私は日本の国宝、重文などの名器はもとより、東洋、中近東、西洋など世界の名立たる焼物を少なからず見てきたが、「秋草文壷」ほど貫禄のある焼物を見たことはない。「秋草文壷」は日本が世界に誇り得る焼物の代表であると思うのである。

  3. 近世の陶器

    16世紀後半、桃山時代は豪華絢爛たる文化の花が咲き誇ったが、その一方で佗茶を大成した千利休によって簡素静寂の境地を重んじる茶の湯の文化も盛んになった。この二つの文化が交じり合うなか、日本の焼物文化は画期的な展開をするのである。

    過去一万年に及ぶ素朴な生活用器とは別に、陶芸というジャンルが開花したのだ。これらの焼物は茶の湯の道具(茶陶)となってフォルムの整正美よりも、むしろフォルムをわざと崩して破調の美を追求するという、現代の前衛美術を先取りしたような、世界に例をみない独自の発展を遂げたのである。

    草庵での佗茶は青磁や天目など高級な唐物は不似合いなので、佗茶にふさわしいものとして備前、信楽、伊賀焼など無釉陶器を茶陶に見立てて利用するほか、朝鮮の庶民が利用したドンブリのような雑器を井戸、三島、粉吹[こふき」茶碗などと名付けて珍重した。

    特に井戸茶碗は全ての茶碗の首座とされており、「銘喜左衛門」(大徳寺弧蓬庵蔵)は国宝に指定されている。もし井戸茶碗がマーケットに出たら、おそらく数十億円の値が付くだろう。

    ただし、これは茶道の盛んな日本の中だけの評価であって、外掴ではただの雑器にすぎない。

    利休は呂宋[ルソン]壷(中国南宋で焼かれてルソン島に輸出されたもの)を輸入して茶壷に仕立てて、和物の茶壷の千倍の以上の高値で売り捌いた。利休は当代一の大茶人だったが、本業は利に敏[さと]い堺の商人でもあったのだ。

    こうした高価な舶来物だけでなく、見立て物でない純粋な茶陶が日本でも作られるようになった。まず作られたのは利休の好みに合わせて、瓦工長次郎が作った楽茶碗である。

    長い焼物の歴史のなかで、初めて長次郎という作者名が現れた。焼物の世界に始めてアーティストが誕生したのだ。そして焼物は陶芸作品となったのである。

    楽焼はロクロを用いず、手びねりで成形し、黒や赤に施釉して小規模な窯で一つひとつ焼いた軟陶であるが、利休は楽茶碗を陀茶に最もふさわしい茶碗であると高く評価した。

    長次郎の代表作「銘大黒」など3点が重文に指定されていて、楽焼は長次郎の後も茶碗のブランドとなって、今なお作り続けられている。

    なお厳密な意味で楽焼というのは楽家代々の作品(本窯)のみで、その他のものは脇窯という。

    楽焼をさらに進化させたのは、万能形の天才本阿弥[ほんあみ]光悦である。

    光悦の本業は刀剣鑑定であるが、当時を代表する文化人で諸芸に秀で、書は寛永三筆の筆頭、漆芸では国宝蒔絵「銘舟橋硯箱」(東博蔵)、陶芸では国宝茶碗(銘不二山)(サンリツ服部美術館蔵)と重文2点を残している。

    長次郎の茶碗は作意を内に秘めて、温厚静寂の品格を現しているのに対して、光悦の茶碗は創意に満ちた彼の美意識が見事に表現されていて、フォルムも多様でありながら、一見して光悦作とわかる個性的作風である。私も一時期茶碗を焼いたことがあるが、光悦の作品は憧れの的だった。

    楽焼と並んで桃山の陶芸を飾ったのは、美濃の諸窯である。この時代は一般の町衆にも飲茶の習慣が拡まり、格式にこだわらない斬新な感覚の茶器が求められた。

    この要求に応じたのが美濃の黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒などである。

    黄瀬戸はこの時代には珍しく器体全面を黄色の地釉で被い、その上に緑釉や鉄釉の簡単な絵が描かれている。

    志野は美濃を代表する茶陶で、器体に極く簡素に鉄絵が描かれていて、その上に日本独自の気泡の多い白釉が被さつている。

    フォルムは整正ではないが、どことなく品格があり、志野茶碗「銘卯花墻[うのはながき]」(三井記念美術館蔵)は国宝に指定されている。

    利休没後の茶の湯を継承したのが戦国武将の古田織部である。利休が佗茶のなかにも精神性を重んじたのに対して、織部は遊興的な風流数奇の茶風で茶器も整正されたものより、歪んだものや装飾性の強いものを好んだ。この織部の指導によって焼かれたといわれるのが織部焼である。

    織部焼はフォルムの整正なものは稀で、ほとんど大胆にデフォルメされており、器面には素朴な草木や抽象画のような絵が描かれていて、その上に織部独特の緑釉が部分掛けされている。いまだかつてこれほど型破りな焼物はどこにもない。

    こうした美濃の焼物や京の楽焼、それに加えて伊賀、信楽、備前焼などの不整正な焼物を好んだ桃山人の美意識は、決してアブノーマルではなく、個々の作品のそれぞれにオリジナリティを求める、豊かな感性をもった人びとだったと思うのである。

    17世紀の江戸中期に、不世出の名工といわれた野々村仁青が、京の仁和寺門前に窯を築いた。仁青はロクロの天才といわれたが、彩色にも卓越していて、美麗を極めた色絵の茶碗、茶壷、水注[みずさし]、香炉などを数多く作っている。

    これらのうち国宝「雉子[きじ]形香炉」(石川県立美術館蔵)は実物と見まがうばかりである。もう一つの国宝「藤花文壷」(MOA美術館蔵)は満開の藤の花が優雅に垂れ下がつている。

    この2点の国宝のほか、重文(右図「色絵若松図茶壺」)が私の知っているだけでも12点ある。これほど多くの国宝、重文に指定されている陶芸家はいない。これこそ仁青が不世出といわれる所以[ゆえん]であろう。

    仁青に続いて京焼をリードしたのは尾形乾山である。乾山は琳派の巨匠光琳の弟で琳派風高級食器が主要作品であるが、このうち光琳が絵付けした陶画が有名である。

    京焼は乾山のあと、奥田頴川[えいせん]、青木木米[もくべい]、仁阿弥[にんなみ]道八と続き、さらに清水焼などとなって現代に至っている。

    さて、国宝指定の陶磁器は14点あるが、その内五点が日本製で内訳は前述の秋草文壷、志野茶碗「銘卯花墻」、光悦茶碗「銘不二山」、仁青作、「雉子形香炉」と「藤花文壷」である。

    外国製9点の内訳は朝鮮製井戸茶碗「碗銘喜左衛門」、中国製天目茶碗五点と青磁花生3点である。以上14点のうむ秋草文壷を除く13点のすべてが茶陶である。

    これをみると日本で如何に茶陶が尊重されてきたかが判る。茶の湯が焼物を育て、焼物は茶の湯の最高の具足となって、茶の湯をより魅力あらしめたのである。

    余談になるが中国南宋時代に焼かれた曜変天目という茶碗がある。この茶碗は焼成中に釉薬の気泡の破裂によって生じた窯変が黒い地釉の上に満天の星のようにきらめいている。

    これは偶然の産物で人工的には作れなく世界の至宝といわれている。現存するのは4点のみで全て日本にあり、内3点が国宝に指定されている。

    この世界遺産ともいうべき絶品中の絶品が日本で丁重に伝世されていたことは、世界の焼物界のためにも実に幸運だったと思うのである。

  4. 磁 器

    16世紀末、秀吉の朝鮮出兵に従軍した西国大名達は、帰国に際して朝鮮の陶工を連れて帰り、領内に窯を築かせて焼き物を作らせた。

    その主な窯場は山口県の萩、九州の有田、唐津、上野[あがの]、高取、八代[やつしろ]、小鹿田[おんだ]、龍門寺、苗代[なしろ]川などの諸窯である。

    当初これらの窯場で焼かれたのは陶器であつたが、17世紀の初期、有田の地で朝鮮の陶工李参平によって、日本で始めて磁器の焼成に成功した。

    日本は奈良時代から中国や朝鮮の焼物を大量に輸入してきたが、特に磁器は格別に珍重されていた。

    そこで有田で輸入物を模した染付の茶碗、徳利、皿、鉢などの食器が作られた。最初は素朴な朝鮮風から次第に中国風の複雑な絵模様に変化していった。これら有田で生産された磁器は、近くの伊万里港から搬出されたので伊万里焼と呼ばれるようになった。

    16世紀後半、有田磁器は鍋島、柿右衛門、古伊万里の3様式に分類されるようになった。

    鍋島は藩の御用釜で将軍家や諸大名への贈物として作られたので、製品は器形、図柄共一点のみだれもなく精微を極めているが、あまりにも完全を求めたため、生気に乏しく迫力に欠けるという評もある。

    柿右衛門は日本で始めて赤絵に成功した磁器として有名だが、その赤絵は中国赤絵のような豪華さはないが、余白を大きくとつた典雅な絵柄はすがすがしい。

    ちなみにヨーロッパで最初に磁器の製作に成功したドイツのマイセンが手本にしたのが日本の柿右衛門手であつた。

    古伊万里は有田で江戸時代以前に作られた磁器で、鍋島、柿右衛門様式以外のものをいう。古伊万里は素朴なものから次第に豪華なものへと発展し、金襴手など器面全体を華麗に装飾するものも作られた。

    丁度その頃、中国では明から清への交代の混乱から、焼物の輸出が滞ったため、オランダの東印度会社は主たる発注先を有田に替えた。

    これによって有田の磁器は大量に海外に輸出された。これを期に日本は中国に替わって、磁器の最大生産国にのし上がったのである。

    なお日本で最も優れた磁器の一つに豪壮華麗な古九谷がある。古九谷は石川県の九谷で焼かれたとされていたが、近年の調査によって有田製と判り、古九谷を有田製の古九谷様式と呼び、他の九谷焼と区別されるようになった。

  5. 近現代の焼物

    19世紀後半以後、明治時代の焼物は、殖産興業、輸出振興策によって産業窯業の時代を迎えた。

    そうしたなかでも宮川香山、諏訪蘇山らが陶芸作品を作っており、特に宮川はウィーン、パリ、シカゴ万国博覧会で金牌を得ている。ただ、それは美術品としての評価ではなく、工芸品としての評価であつた。          

    大正時代になると板谷波山、清水[きよみず]六和、楠部禰弌[やいち]らによって、焼物を造形芸術の域に高めようとする模索が始まり、昭和時代の近現代陶芸へと発展していった。

    さらに第二次大戦後は衰退していた各地の伝統的窯場と、その陶芸を復興しようとする運動も興り、日本の焼物は再び黄金時代を迎えるのである。

    こうしたなか代表的な陶芸家を、マーケットの評価の高い順に揚げると、

    中国製にも劣らない端正な色絵磁器の上に、さらにやや不透明な釉薬をかける彩磁という技法をあみだした板谷波山、

    羊歯の葉を組み合わせた模様など、極めて日本的な洗練された色絵磁器の富本憲吉、

    料理人から日本古陶を近代化した陶芸家北大路魯山人、

    古い陶芸を改革し、彩埏という技法を生んだ楠部禰弌、

    美濃焼を復興し、さらに発展させた加藤唐九郎と荒川豊三、

    無釉陶器備前焼を造形芸術の域に高めた金重陶陽、

    民芸陶器の旗頭、河井寛次郎、

    鉄彩磁器の石黒宗磨、

    金襴手磁器の加藤土師萌、

    清水焼六代清水六兵衛、

    楽焼十四代楽吉左衛門、

    萩焼茶陶の三輪休和、

    益子焼民芸陶器の浜田庄司、

    唐津焼茶陶の中里無庵、

    現代的九谷焼の浅蔵五十吉、

    前衛陶芸の八木一夫、

    平成の第一人者絵画的色絵磁器の藤本能道、

    有田柿右衛門手十三代酒井田柿右衛門(下図右)、

    同鍋島の十三代今泉今右衛門(下図左)などである。

     

    日本の焼物文化の特徴的なことは、種類の幅が広いことである。外国では下から順に無釉陶器、施釉陶器、磁器とランクが上がっていくのに対して、日本ではこれらが同格に並び、茶陶ではむしろ楽、萩、唐津、備前焼など陶器のほうが優位に立っているぐらいである。
     
    なお、外国では磁器は高級品として大切にされているが、日本では磁器は国内に氾檻していて、どのような家庭でも磁器の食器を利用している。のみならず、品質の優れた日本の焼物は、世界中に輸出されているのである。

    このように、今や日本は質量共に世界最高最大の焼物生産国になった。

    しかし、経済成長著しい中国が、焼物の生産量も急速に増大させているものと予想されるが、その生産量はデータがないのでわからない。だが、両国の人口差からいずれは中国の生産量が日本を上回るだろう。

    元々中国は1200年以上前から、世界に冠絶する焼物大国で、その製品は世界の隅々まで輸出されていた。それ故英語で陶磁器のことをCHINAという。(ちなみに漆器はJAPANという)。

    日本も奈良時代から中国の焼物を輸入して、日本の焼物作りの手本にしてきたのだ。

    その結果現在の地位を築き上げたのであるが、今後は量の競争ではなく、質の競争、それも技術的な面ではなく、より芸術性を高めることが要求されると思うが、日本の陶芸作家達の健闘を、切に念願するものである。