もう一人モーツァルトに勝るとも劣らぬ天才作曲家がいる。それはいわずと知れたルードヴィヒ・ヴアン・ベートーヴェンである。
クラシックといえば「ダダダダーン」、このベートーヴェン作曲、交響曲第5番「運命」の冒頭の四つの音は、クラツシック音楽の代名詞となつている。
このことはベートーヴェンが、クラツシック音楽を代表する作曲家であることを、端的に示しているのである。
彼はモーツァルトに遅れること14年、1770年にドイツのボンで生れた。
彼も幼少の頃から天才の誉れ高く、ボンの宮廷歌手をしていた彼の父親は、モーツァルトの父親に倣って、
息子を神童に仕立てて売り出そうと、7歳のときにピアノの演奏会をさせている。
11歳になると母に連れられて、オランダまで演奏旅行をし、13歳にはボンの宮廷オルガン奏者になっている。
しかし、彼の父親は酒に溺れていて、収入はほとんど酒代に消えたので、家は常に貧窮していた。そのため家計の負担は、一家の働き手である彼の上に重くのしかかっていた。
その上17歳で母を失ない、彼自身も慢性の胃腸病に苦しむなど、貧困、不幸、不運続きの環境のなかで、あの強靱な精神力が培われたのであろうか。相次ぐ不運にも屈することなく、彼は着実に大作曲家への道を歩み続けていた。
そうした中で、音楽家にとっては致命的な耳の疾患が進行していて、30歳前後には極度の難聴に苦しむようになった。
向こう意気の強いベートーヴェンも病には勝てず、33歳のときに、悲観のあまりに自殺しようとして遺書を書いている。
この危機を乗り越えた彼は、旺盛な作曲活動を再開した。丁度その頃フランスでは、ナポレオン・ボナパルトが旧勢力を打倒して、新時代の覇者になっていた。ベートーヴェンはそのナポレオンを尊敬していて、彼に捧げるため、大交響曲第3番を作曲した。
ところが、自由と民衆の味方と思っていたナポレオンが、帝位についたことを知ったベートーヴェンは激怒して、「ボナパルト(ナポレオン) のために」と書いていた譜面の表紙を破り捨て、標題を単に 「英雄」としたという逸話は有名である。
ベートーヴェンの音楽はほとんど苦闘を経ての勝利、苦悩を通しての歓喜という精神に貫かれている。
その典型が交響曲第5番「運命」、同第9番「合唱付き」である。
第5番の「運命」という標題は、ベートーヴェン自身が名付けたものではなく、彼が「運命はこのように扉を叩く」といったということから、日本で名付けられたものである。
確かにあの有名な冒頭のモチーフ「ダダダダーン」という四つの音は、運命を予感させる緊張感を孕んでドラマティックである。
ベートーヴェンは曲に緊張感を増すために、半音符休止という手法を多用している。
第五の場合は、冒頭からして半音符休止となっていて、聴く者に息を呑むような感動を与えるのだ。
第5「運命」は、演奏時間30分足らずで、交響曲としては比較的短く、オーケストラも4管でなく2管編成でこじんまりとした曲であるが、内容的には苦難に立ち向かう悲壮感、そして勝利の雄叫び、その高い精神性と劇的緊張感、圧倒的迫力、それらが完壁に構成された極めて完成度の高い、超大曲の風格を呈しており、クラッシック音楽の到達点を示す金字塔となっている。
第9番「合唱」は、構想を始めてから12年、作曲に着手してから3年、演奏時間75分に及ぶベートーヴェン畢生の超大作である。
この曲の画期的なことは、交響曲で初めて人声とオーケストラとを一緒に演奏させたことである。
この曲は欧米では別格扱いで、特別なセレモニーの時以外は、ほとんど演奏されないが、日本では年末が近づくと、プロもアマも老いも若きも横町のオジチャン、オバチャンまで、第9の合唱の練習に精を出し、年末になると一斉に第9「合唱」 のコンサートを開催するのが、恒例の行事となつている。
曲は第1、第2、第3楽章と気高く重厚に進み、第4楽章に入るとバスまたはバリトンのソロで、「おお友よ、このような音楽でなく、我々はもっと愉快な、喜びにあふれた歌を唄おうではないか」と呼びかける。
これに応じてシラーの詩「歓喜に寄す」の歌が始めはソロで、続いて男女の混声4部の大合唱が沸きあがる。
「よろこびよ、きみは美しい火花、我々は火のように酔って、御身の殿堂に足を踏み入れる」。「人は皆兄弟、御身の優しい翼のおおうところ、さあ抱き合おう、百
万の人々よ」。
この天国の響きのような大合唱が最高潮に達したところで終曲する。
ベートーヴェン自身の指揮により、この曲が初演されたとき、聴衆は嵐のような大喝采を送ったが、失聴のベートーヴェンには聞こえなかった。
未だかつて、これほど崇高壮大かつドラマティックに、人類愛を謳い上げた曲はない。ある人が言った。「この世の如何なる財貨をもってしても、第九を購うことはできない」と。確かに第9は人類の至宝である。
ただ、その偉大さの故に、その時々の権力に利用されてきた。2回の世界大戦の間、ナチス・ドイツは闘争の、ソ連は革命の、アメリカは自由のシンボルとして利用した。現在でもEUがヨーロッパ統合のシンボルとして利用している。
このことは、この曲が主義主張を超越した、普遍性を持った存在であることの証しではないだろうか。
蓋し、第5「運命」が、クラツシック音楽をシンボライズする曲であるならば、第九「合唱」は、全ての音楽の集大成であろう。
この2曲を含め、彼の不朽の名曲といわれている作品のほとんどは、失聴状態のなかで作曲されたものである。
彼は正に奇蹟の天才であった。彼は1827年、折からの雷光とともに57年の生涯を閉じた。葬儀には2万人もの市民が参列したという。
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