米塩のこと
2007/4/24

「米塩のこと」と言う言葉を、ある本で見つけた。「日常の生活のこと」と言う意味だそうだ。

1988年、奈良平城京跡の長屋王家跡から大量の木簡が見つかったが、その中には、長屋王家の日常生活を示すものが沢山あったとのこと。

通常歴史の資料というものは、ある意図を持って書かれるため、あまりに日常的なことは記録されない。それが故に、政治や文化のことは記録に残っても、日常生活のことは意外に記録に残らないという。

木簡の場合、日常生活の記録や伝達のために使われたため、米塩のことが沢山書かれているらしい。

それで想い出したのが、放送大学で受講した「生活学入門」。受講科目案内を見て、面白い名前の科目だなと気になり、受講を申し込んだ。生活の仕方について、実用的なことが学べるだろうとは期待しなかったが、何か指針のようなものが得られるのではないかと期待した。

教科書が届いて直ぐに、前書きを読んだ。

本書には次のようなことは書かれていない。

ワイシャツに上手にアイロンをかける方法
黒豆のおいしい煮方
   ・・・・・

要するに,本書は実用書ではない。日常生活の中で「役に立つ」ことは書かれていない。 「生活学」という名前から,勘違いされる方がいるかもしれないので,最初にお断りしておく。

では,本書にはどのようなことが書かれているのか。それは,たとえば,次のようなことである。

犬はなぜ「わんわん」と吠えるのか。
「サッちゃん」はなぜ自分のことを「サッちゃん」と呼ぶのか。
   ・・・・・

 一言でいえば,「あたりまえのこと」や「どうでもいいこと」が取り上げられ,あれこれ論じられている。

もちろんこれは反語である。本当に「あたりまえ」で「どうでもいい」ことなら,あえて論じる必要はない。本当は「あたりまえ」で「どうでもいい」ことではないから,論じるのである。
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「よく知っていると思い込んでいること」を敢えて取り上げて,再考を試みるというタイプの学問 もあるのだということも知って欲しい。「生活学」はそういうタイプの学問である。

これを読んだとき、皮肉な言い方だが、日本は平和だなと感じた。そして何でも学問の対象になるのだなとも思った。

しかし、こういう視点がなければ、現在の日常生活のことが、将来、分からなくなるとしたら、この学問の意義は大というものだろう。

戦国時代、日本に来たポルトガルの宣教師ルイス フロイスが、「ヨーロッパ文化と日本文化」という本に、「ヨーロッパでは、財産は、夫婦の間で共有である。日本では、各人が自分の分を所有している」と書いているという。

日本語の文献にこのような資料は見あたらないとある新聞記事にあった。

ルイス フロイスにとっては当たり前のことでなかったから、歴史から漏れることなく記録されたということになる。

戦国時代の武将、山内一豊の妻の有名な美談は、美談に違いないにしても、その背景は、現在の我々が考えるものとはかなり違っていたのかも知れないと思うのである。