私の終戦時代
2005/4/14

あるボランティア団体に参加していた頃(2004年)、持ち回りで、テーマを与えられ、話をさせられた。その原稿である。

1939年(昭和14年)北京で生まれた。来年小学校というときに終戦。

北京では、中国人から接収したらしい大きな家に住んでいた。結構裕福だったように思う。外地にいたため、空襲などの経験がまったくない。戦中とは思えぬ平和な幼年時代であった。

終戦で、日本に引き揚げることになり、北京から、トラックや無蓋貨車で大連に向かうとき以外、怖いとかおかしいと思ったことは一回もない。

終戦になり、トラックで荷物ともども駅に向かう途中、トラックの荷物が、目の前で、中国人に抜き取られるのを観た。

大連で、始めて西洋人の兵隊を見た。背が高く、鼻が高く、赤い顔で、鬼ではないかと思った。

両親は、大切なものを少しでも日本へ持ち帰ろうと、我々子供3人にリュックを背負わせた。しかし、途中で、重い重いと泣き叫ぶので皆捨ててしまったと母は言う。

大連で、船に乗る。米軍のLST。船倉に大勢が雑魚寝。

船旅の途中、演芸会があり、ある女性が歌った。あとで母から聞いたところでは、渡辺はま子が同じ船に乗っていたのだという。

この話をそれほど若くもない人にしたら、「渡辺はま子って誰?」と言われた。もう忘れられた人なのか。

船旅の中で幼児が死に、水葬。死体をくるんだ包みが海に沈んでいくのをデッキに崩れて涙で見送る母親の姿は今も目に焼き付く。

何日かかったのかは覚えてないが、佐世保に上陸。上陸した途端、頭からDDTをぶっかけられた。

最初は、父の郷会津に向かう。しかし、親子で父の親類に世話になる身の上、母は身の置き場に困った様子だった。父も職が見つかるわけでなく、母の郷、四国の今治に向かった。

ここで小学校に入ったが、入学式は終わっていた。ここでも、母方の親戚に借家住まい。父は職を求めて、やはり、福島の親類筋に頼っていたので、父と会うことは余り無かった。

父の職が定まらず、親類に世話になっていることもあり、母は随分切りつめた生活をして居た。小生自身、いつもお腹が空いていた。

偶々、父が戻ってきたときのことで鮮烈な想い出がある。

つましい食事を家族で取っているとき、子供達は当然、もっと欲しいとねだる。母は、自分の分を分けて、子供に与えた。それを父が横取りした。母が怒った。父は、「俺も腹が減っている」と怒鳴った。

子供心に、父を憎らしく思った。今以て、そんな極限状態を経験したことはないが、今思うに、男という動物は、腹が減っては人格も失うことがおかしくない動物なのだと思うようになった。逆に言えば、母親の子供に対する愛情というのは、言葉で言い表せるようなものではない、凄まじいものだと痛烈に思う。

「ひもじい」という言葉は、今や死語。しかし、小生の戦後体験はこのひもじさに集約される。

小学校では、常にやせでチビ。こちらの家庭の状況を担任の女教師は知っていたらしい。いろいろ気を使ってくれた。遠足の時など、「遠藤さんは、お弁当を持ってこなくて良い」と言った。小生の分を先生が作ってきてくれた。そのことについては母は何も言わなかったが、屹度、苦しんでいただろうと思う。

ある日、この先生が、「遠藤さん、小遣い室に行きなさい」という。何人かの生徒が居て、肉の入った雑炊が出た。引き揚げてきて以来肉など食べたことはない。本当に美味かった。おまけに、お土産にキャンディー。涙が出るほど美味かった。偶々、米軍の払い下げ物資で給食が始まることになったらしく、その実験だったらしい。

喜び勇んで帰り、母に話すと、「情けない」と母は目頭を押さえた。

小学校3年生になっても、父の職は定まらず、何時までも親類に世話になる訳にもいかなかったようで、小生が小学校3年の夏休みに、母は、突然、我々子供3人を連れ、父のいる福島へ。

お世話になった先生には、何の挨拶もしなかった。今治から、尾道への連絡船は、実に綺麗な航路だった。しかし、尾道から東京までの列車は凄まじかった。座る所など無くデッキに親子四人丸くなって寝た。

上野に着いたのは明け方。浮浪児と呼ばれた子供達がうろうろ。同じ子供なのに、怖かった。母に言わせると、あんた等も浮浪児と変わらぬ格好だったよと言う。

それからあれこれあったが、どうにか家庭らしく落ち着いたのは、朝鮮戦争が始まって、親父が横須賀の駐留軍要員として採用されてから。

おかげで、大学にも行かせてもらえた。親父が米軍の世話になって、自分が大学に来れているということもあって、樺美智子さんが亡くなった安保闘争には、どうしてもついて行けなかった。