表題
250323
yozo

真冬の時期もどうやら越したようで、春の気配が近づいているような今日此の頃ですね。

(その3)で書きましたが、毎朝近所の公園で、近隣の仲間の皆さんと太極拳を愉しんでいます。

公園には数本の桜の木があって、春の訪れを知らせてくれます。まだ蕾は硬い状態ですが ”もうすぐ春がくるよ”と囁いているような感じです。公園の周りにはあちこちに梅の木があって、こっちの方は今が盛りで、きれいに咲いていて、散歩の折に眺めるのが楽しみです。

梅2

梅の香に 胸がときめく 散歩道

春来ると ほころぶ梅に 笑みが湧く

なにか気分が落ち込んいたのか、10年ほど前にこんな句を詠んでいます。

寒空に 梅がささやく めげるなと

最近、放置される空き家の問題をニュースで見ますが、我が家の近所でもそんな空き家が有って、その庭に梅の木が一本あります。

あばら家に 梅の古木が 春告げる

話は変わりますが、古手紙やら古写真やら何十年分のものを入れたままになっている我が家の袋戸棚が、一杯になったので整理を始めました。

古い手紙や年賀状には、どんな関係の人だったかとか、名前が全然記憶にない人だとか、まあいろいろ有って、時がながれたなーと感じながら作業をしています。

年寄り夫婦

勤務地の四日市に故郷の石巻から親父、お袋がくれた手紙などもあって、そんなのを読んでみると、感無量ですね。

親の恩 返さぬままに 我も老い

八十路来て 懐かしさ増す 父母の愛

こんな感じが心に浮かんで来て、改めて仏壇の両親の写真を眺めて、

仏壇の 顔懐かしや 父と母

こんな句が頭に浮かぶのも、自分が歳をとったせいでしょうね。

散歩していると、あちこちに樹齢かなりの老木があって、そんなのを眺めていると、

古木言う 老いには老いの 美があると

そうありたいなあと思いますが、古木の言うようにはなかなかなりませんね。若い頃に比べると、だらしなくなったなあ、というのが実感です。

最近は体調の問題も有って、家の近所しか散歩しませんが、以前はよく江戸の歴史が残っている付近を散歩に出かけていました。下の句は麻布の善福寺を訪ねたときに詠んだものです:

梅2

江戸の寺 歴史を語る 大銀杏

路地裏に たたずむ地蔵 江戸の顔

先に、古手紙や古写真などを整理中と記しましたが、懐かしくてついつい読みふけってしまいます。

亡き友の 古い手紙に 読み耽る

亡き友の 笑顔が浮かぶ 古手紙

古い写真をみていると昔のことが脳裏に浮かんできて、

古写真 見て思い出す 若き日々

ここ数十年音信のなかった古い友の声を聞きたくなって、電話してみました。

電話する 声懐かしい 古き友

この ”古写真・・”の句と ”電話する・・”の2句は私の所属するNHK学園川柳倶楽部から最高の評価点を頂いた句です。

最近は、手紙を書くよりメールなどでやりとりすることが、普通になってしまいましたが、便利なようで何とも味気ない世の中になったなあー、と感じています。

DX

メールより 手紙にこもる 人の情

すぐメール 便利にすぎる 世を憂う

情報が あふれ温もり 消えてゆく

このデジタル社会の現役の世代の人たちは、老後の余生をどんな心情で過ごすのでしょうかね。

デジタル化 人は自然と お別れか

デジタル化 ついて行けない この波に

このデジタル社会にあって、こんな心境を持ってしまいます。

人類は何かとんでもない方向、取り返しのつかない方向に進んでいるようで、自然界に生きる生き物の一種としてこれで良いのだろうかと、なにか心配になりますが、皆さんはどう思われますか?

”人間も自然界に生きる生き物の一種”という概念を我々人類はいつの間にか忘れてしまったのではないか、と私は感じるのですが、思いすぎでしょうか、皆さんは如何ですか? そんな心境の中で詠んだ句です。

国境て そりゃ何だい と渡り鳥

国境などという、自然界に存在しないものを勝手に作って、争っているのが現実ですが、こんなことをやっているのは人類だけですものね。

群れ同士 殺し合ってる おろかな種

こんなことを書いていると、、きりが無いので、この辺で止めにします。

丁度今、昼時で、最近はちょっとだけ昼酒を楽しんでいます。

昼酒で 老いも楽しい 青い空

それでは又。

2025.2.25 記

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