表題
サカタン

六本木の国立新美術館に国展を観に行った。

目当てはハリー老公の4回目の入選作である。正直、これは実に凄いことである。 しかし、見て驚いた。私には理解不能な作品だった。

題は「あじさい」であるが、見た瞬間、いや、よく見ても、紫陽花には見えない。 もちろん、紫陽花の印象を表現したものには違いなかろう。

そういう前提を自分に課して鑑賞した。 要するに、これはもう抽象画の世界だと思う。

版画「あじさい」:

今迄の3作は主題が明らかに見えた。

第1作「レンガ壁と草花」、第2作「精錬所の廃墟」、第3作「天空の城址」 いずれもイメージが頭に残っている。 (註:実際の画題は覚えていない)

シュール気な第1作を除いて、描かれた形(パーツ)の輪郭は緩やかである。 いずれも抑えた色で、張り合わず互いに譲り合うごとく刷り分けられている。

形、色彩のいずれでも、画面から突出して自己主張してくる部分はない。 淡々とした心象風景で、言えば「渋い」「地味な」「枯淡な」絵と見た。

対象に向けた作者の哀惜の思いがじわりと伝わってくる、落ち着く、なごむ。 これを以て「古(いにしえ)の茶人の好み」を想像するのは素人の浅慮か。国展の雰囲気からは異端に近いとも言える「半具象」なところが好ましかった。

今回の作品も基調は変わらない。ハリーの個性は健在だ。けばけば、ごたごたの他の抽象画群とは一味違う。しかし、抽象化の度が進んだというべきか、愚生には主題が認識できないのである。

国展の殆どは抽象画である。彫刻と工芸を除けば、写真を含め抽象画の森である。 愚考するに、無から捻り出された造形と、具象画が抽象化したものとの2様がある。 前者は奇抜さの競作で、驚きはするが、さしたる印象は受けない。すぐに飽きる。

後者は、画家の見ている主題が心のフィルターを通して心象風景(半具象)となる。 それが更に咀嚼発酵され、元の主題が見えぬまでに抽象化されるということかな。

しかし、その道程は俗人に想像しがたく、漠然とした親近感を感じるのみである。 されば、彼らは俗界の思惑を離れて勝手気儘に遊ぶ「仙人もどき」に違いない。 我等のハリー老公も、「老境」を抜け出して、今や「仙境」に遷移しつつあるか。

国展絵画部門展示

表現されているものは別として、版画の技法は急速に多様化しているようだ。 老公は伝統の木版画であるが、「デジタル○○」「デジタル△△」とあるのが増えた。

原版つくりにパソコンを用いるのだろうが、CGのプリントも版画の内らしい。 会場の表示に「版画 print」とあった。逆翻すれば「印刷=版画」である!。

絵画の部も、描くのではなく素材を組み合わせた立体的なものが散見される。 壁面からもくもく、ふさふさと膨れ上がったり、床の間の古畳らしきものだったり。もう、勝手におやりくださいという感じ。

小中学生の写真展が、作為も衒いもなく、これぞ本来の美的感覚と生き返る思いだった。

もちろん、抽象画にはそれなりの価値があるんだろうと思います。

門外漢が勝手なことを書きました。最後に謝っておきます。

以上

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