表題
老老ハリー

国展入選版画「天空は晴れ 石垣に風」
国展入選版画「天空は晴れ 石垣に風」

暑くなると暑さの愚痴を言い、冬には凍えそうとぶつぶつ言う身となって久しい。

各位のご様子をそれとなくうかがうと季節の煩いなどぶっ飛ばしてブンブン暮している方が少なくなくて、全くうらやましいです。特に、最新のノーサンの世界一周旅行の話にはビックリしたなー。

ご夫婦共々体力・気力・財力いずれにも優れて優雅・頑丈にキープされていて『ドーモ、あたくしとは別世界そのものだ!』というのが感想であります。

負け惜しみじみて『昔ならオレも・・』くらいのことは言って見たいのですが、どの時代のあたくしもノーサンの現在には及ばないし及ばなかったのであります。

そんなわけで、近頃のあたくしはパウロが厳重に入場可否を審査しているといわれている『門』の入場許可をもらえるかどうかだけが大きな関心の的になっているのですが、もし<なんとか入れてよ>と平身低頭して頼んでもOKを得られそうにない。この切実な問題・どうしてOUTになってしまうのかを考えてみたい。加え、皆様の暖かい救助の手をお願いするのが今日の趣旨です。

色や形、思考の経路などをあっさりと区分すると(ドーモ)具象と抽象に分けられるようですね。

目に見えるままと称して恐れ多くも世の中を芸もなく、なんかかんとか表現しようとしている(それでいて怪しいものしか作れない)あたくしにとって、どこにも存在しないような ありもしない とてつもない嘘っぱちとしか思えない絵姿を心のドッカに思い浮かべ、頭の中で加工・育成・変形させこの世を別世界から眺めるようなものをこね回し、これこそが抽象画であるなどいう芸はトッテモできない。

でも、しかし、考えてみるまでもなく葛飾北斎や棟方志功の絵はどう見ても写実的などというモノではなくてすばらしい絵空事でありますね。

これらを見れば、いかな鈍感なあたくしも感動せざるを得ない。目に見えるままの表現ではこんな具合にはとてもいかない。

展覧会場に行くとあたくしより格段に優れた絵がいっぱいありそれらは北斎・志功を上回るほど抽象されたものが大部分で、その効果で感動の絵心を的確に捉えているのが分かってしまう。

で、結果、感動に程遠いもので(小さな世界を)引っ掻き回しているあたくしは異端の烙印も痛々しくパウロの門をはじき出されてしまうことになるのだ!

以前不遜にも、近いうちにあたくしが(奇跡的にでも)あの門をくぐり終えてアッチに落ち着いたら皆様に天国通信を差し上げ、その上蜘蛛の糸よろしく皆様を引っ張り上げたいナーなどと不遜なことを申し上げましたが、改めてあたくしの力のなさを赤裸々に白状いたしおわびと訂正をいたし『各位を引っ張り上げることなどはとても出来ぬ世迷い事でした』と白状するのであります。

と同時にあたくしがパウロに拒絶され、責め苦の世界におとしめられて苛まれているのをご覧になったら上の方から丈夫な紐を下ろし、やせ細って傷だらけのこの身を釣り上げていただきたいなーとお願いする次第です。

国立新美術館の展示
東京国立新美術館での展示(中央)

今回の版画『天空は晴れ 石垣に風』はサカタンが最近の便りに書いてくれているように、兵庫県朝来(あさご)市の竹田城址です。この場所がどんなにあたくしの気に入った素晴らしい所かは昨年の我が投稿に書きました。

近頃、衆目を集め『タダで放っておくにはもったいない』と入山料を取るところまでユーメ―になったということも書きました。(それでいて城跡のてっぺんにたどり着いても、売店・お便所の類どころかベンチもない)

しかし、あたくしの版画はこの城跡の素晴らしさにとても及ばないのは衆目の一致したところでしょう。写真などを横目で(つくずくと)眺めながら写実的(?)にやったつもりですが、結果はこれまで。

何事にも、年相応を踏み外したり腕力不足などが祟ってとてもできないことを無駄にやってみても甲斐のない歯ぎしりなので、腕の力はもちろんのこと構想力などもめっきりと衰えたあたくしは、そろそろ(または、疾うにそうあるべきだったのでしょうが)版画の店をたたみ同時に駄文で一角を騒がせることなども無いよう心がけます。

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