「東洋医学よもやま話」 その6

北川洋三

 

この「よもやま話」も何となく回を重ね、思いつくままに書いてきました。

前回のその5では、経絡と経穴について書いたので、順序として今回は臓腑理論について、と言うことになれば、いわゆる「東洋医学概論」の2大テーマが出揃うことになります。 

しかし、本稿はあくまで「よもやま話」であり、気ままに書くのが本意なので、かねて聴いてもらいたいなーと思っていたテーマについて書きたいを思うのですが…。 それは、いわゆる生活習慣病といわれる一群の病気を東洋医学的にどう見るか、ということなんですがね…。  

二度続けて…が文末に入ったのは、この複雑なテーマをどんな風に書こうか、と小生の頭の中がいまだ明快に整理されておらず、自信の無さが表れているわけなんです。

生活習慣病こそは東洋医学が真価を発揮できる分野であるんですが、このテーマを真正面からとりあげて分かりやすく解説した東洋医学の一般書が意外に少ないですね。

生活習慣病は以前は成人病と言われていたのですが、平成8年12月に厚生省が導入した比較的新しい疾病概念です。 

“成人病”というと何か「年取ったからしょうがないや」という感じがありますが、“生活習慣病”というと「年と関係なく、生活習慣の改善で病気の発症や進行を予防することが出来るぞ」いう感じがしますよね。 

改名の意図もその辺にあるらしいですが、更に最近では年少者の間でもこの種の疾病が珍しくないということも関係しているらしいです。  なんと、最近では小学生が糖尿病にかかるんですって! 

生活習慣病というと皆さんはどんな病気を連想しますか? 

すぐに頭に浮かぶのは、癌、脳卒中、心筋梗塞、糖尿病、高血圧、高脂血症(高コレステロール)などではないでしょうか。 特に前3者は3大生活習慣病とも言われ、日本人の死因の60%を占めるものです。

しかし広い意味で言えば、伝染病や感染症や各種中毒や外傷などの急性疾患を除いたすべての疾患が対象になると思います。

生活習慣病の原因(病因)は字句どおり生活習慣にあるわけで、生活のやり方次第で、つまり自分の意志で避けることが出来る疾患群ですね。

一方、感染症などの急性疾患は外からいきなり襲い掛かってくるものであり、自分の意志では避けることは出来ない、だから生活習慣病ではない…、という理解でいいでしょうか?  

医学的な定義はそれで良いのですが、それではインフルエンザの流行期に発病する人と、発病しない人の差は何なんでしょうか? 

現代はインフルエンザの病因がウイルスであることが分かっているので、人ごみを避けるとか、外出から戻ったら手を洗って、うがいするなどの生活の智恵の差も多少あるかも知れませんね。 

かつての江戸はたびたび猛烈な伝染病に見舞われたことは良く知られています。 コレラや天然痘が一旦大流行すると10万人規模の死者が出たと言われています。 この当時、病因は分からず、人はただ厄除けの祈祷をやるぐらいしかなかったわけですが、それでも死んだ人と生き残った人があったわけで、その差は何なのでしょうか?

これら感染症や伝染病に晒されたときの生体の抵抗力の差が命運を分けた、と考えるのが妥当ではないかと思うのですが。

それでは抵抗力の差とは何でしょうか?  生まれつき虚弱な人と強壮な人がいるのは事実ですが、長い間の生活習慣によってその差が出てくることも事実であろうかと思います。 

そう考えると、これら一見生活習慣病とは無関係なこれら急性疾患も、根っこのところで生活習慣と大いに関係がある、いうことが出来るのではないかなーという気がするのですが、どうでしょうかね?

それでは本論にはいりますが、東洋医学では病因をどのように考えているでしょうか。

2000年前の「黄帝内経」や宋代の「三因極一病証方論」などの古典にそれはまとめられており、病因を外因、内因、不内外因の三因に分けて考えるのが一般的です。

第一番目の外因ですが、これは六淫ともいわれ、風、暑、湿、燥、寒、火の6種類の外邪の総称です。 これらの中で、言葉としては“風邪”はそのまま“かぜ”として現代にも引き継がれて普通に使っていますね。

暑邪は言葉としては、あまり使いませんが、暑気あたりとか熱中症とかは暑邪の仕業でしょうし、湿邪の季節である梅雨時に体調をこわすなどは実感として分かりますね。 

しかしこれらの病気は生活習慣病とは直接は関係が無くて(前述のように生活習慣病を深読みせずにさらりと解釈して)、問題はその他の病因です。

第二番目の内因ですがこれは七情ともいわれ、中身は、怒、喜、思、悲、憂、恐、驚の7種類の情志(感情)の変動です。 

元来、七情は外界に対する情緒的な反応であり、これが健全に発揮される限りにおいては病因とはならないものです。 溌剌とした情緒的な反応は、年齢を重ねればなおさら失いたくはないものですねー。 若い頃に比べるととかく感動することが少なく、少々気が短くなったなーと、これは自分のことですが、諸兄はどうですか?

これらは、元来病因とはならないのですが、長期にわたって過度の刺激を受け、激しい情緒の変動が続き、生理的な調節の許容範囲をこえてしまうと、いろいろな体質の変動の原因になり、病気を発生させると古典は教えています。

現代風にいえは、長期にわたってストレスを受けると病気になる、ということを言ってるわけですが、古代からストレスは大きな病因だったのでしょう。

古代と現代とどっちがストレスが大きいか、などということは考えてもあまり意味の無いことですが、想像してみるに大きさはともかくとして、その質においては随分違うのではないでしょうか。 あくまで想像ですが、古代人にとって最大のストレスは命の危険の度合いが、現代(少なくとも現代の中国や日本)にくらべて比較にならないほどに大きかったということではないでしょうか。 飢饉や伝染病など命の危険に対する恐怖は現代の比では無かっただろうと思いますね。 

一方現代はストレス社会だといわれますね。 命の危険が古代に比べれば格段に小さいことを思えば、この呼び方は適切なのでしょうかね、大いに疑問だなーとも思うんですがねー。  ストレス社会は何も現代だけではない、古代から延々として変わらずに人類はストレスに悩んできた、と考えるほうが自然なのではないでしょうか。

古典で内因と言われる病因について、とりとめも無く書きましたが、この内因は疑いも無く生活習慣病の病因の一つですね。 

そして、七情それぞれが特定の臓腑に対応しており、たとえば“怒”という情志は“肝”に対応しています。 つまり“怒”が過ぎると“肝”が傷害されるというわけです。

東洋医学における“肝”とは何か、これは冒頭に述べた臓腑理論を話さないと分かりにくいのですが、一言で言うと “全身の気をのびのびと、滞りなくめぐらす機能”を言います。 これは肝の疏泄(そせつ)機能といって、生命活動を健康に維持するにはきわめて大切な機能です。  東洋医学でいう肝は、つまり肝臓そのものではない(肝臓を含んで、もっと大きな生理機能を担当している)ので要注意です。

“怒”が過ぎるとこの疏泄機能が阻害されるわけで、いろいろな病気の原因になります。 たとえば血行障害とか、血行障害に起因する腫瘍の形成とか、胃腸の不調とか、高血圧とか、情緒の不調(鬱病など)、生殖機能不全などなど多様な生活習慣病の範疇に入る疾患の原因になるもので、可能性ということで挙げればきりがありません。

いらいらかっかと怒ってばかりいると、こんな病態になる可能性があるわけで、努めて心の平静を保つことがいかに大事かということですね。 自戒。

“怒”以外の情志もそれぞれ臓腑に対応しており、喜(この場合は異常な興奮状態、狂気乱舞の類と解すべき)に、思は脾に、悲と憂は肺に、驚と恐は腎に対応しています。  

東洋医学ではストレスの質によって、対応する臓腑が傷害され、病態にいたると考えているわけです。 肝を肝臓と解すると具合が悪いように、他の臓腑もそのまま解剖学の臓器(つまり人体の部品)と解すると間違いで、この辺はまたいずれ気が向いた時に話すことにしましょう。

さて、第三番目の不内外因ですが、これは内因にも外因にも属さない病因で、飲食、労倦、房事、外傷、痰飲(たんいん)及び瘀血(おけつ)がここに含まれます。

この中で、房事と外傷(外傷は生活習慣とは無関係)は説明不要と思いますので、とばします。

まず飲食ですが、この不摂生が生活習慣病の有力な原因であることは、諸兄も異論の無いところだろうと思います。

“健康に良い食事”あるいは“健康を阻害する食事”に関しては、いささか情報過多ですね。 古来偏食と過食を戒めてきたのですが、現代の食環境はもう一つ複雑怪奇ですね。 その土地で取れる旬のものを食べるように古典は教えていますが、現代は世界中のものが季節を問わず手に入るのですからねー。

さらに、化学的な添加物などは我々生体にとっては未経験のものですから、こんなんでほんとにいいのかなーと思ってしまいますね(最も小生を含めて諸兄は化学の徒ですから、心境複雑ですねー)。

あまつさえ、食料は食いたいものが何時でも、欲しいだけ手に入れることが出来るという人類がこれまで経験した事のないすごい環境!

そして次に労倦ですが、意味するところは、働きすぎと過度の安逸です。 つまり体を酷使しても行けないし、安逸を貪りすぎてもいけないということですが、小生の見るところ後者の安逸の方が現代の我々とって問題が大きいのではないかと、これはかなり深刻に思います。

このことは才萩会40周年の文集にも書きましたが、かなり深刻に思うゆえに再度ここでも強調しておきたいのです。 つまり我々人類は何十万年か何百万年の長い間、自分の手足を使って、食料を得るために日がな一日動き回るという生活を送ってきたわけで、体の生理機能もそれに順応したように出来あがっているということです。

それが産業革命以後の急激な近代化に伴って、特にここ50年位の間の交通手段を始めとした物質文明の進歩(健康という視点から見たら退歩?)によって、生理機能でカバーしきれない程度に、慢性的な運動不足の状態に陥ってしまった。  

摂取した養分が捌ききれずに、体内にたまっていくというプロセスは生活習慣病の大きな原因の一つだろうと思いますね。 

そして、先に挙げた痰飲(たんいん)と瘀血(おけつ)は、ともに病理産物といわれるもので、まさに捌ききれずに体内に溜まったもの(結果)であるわけですが、さらにこれら自身が諸々の疾病を引き起こす原因となるものです。 

痰飲と瘀血という概念は生活習慣病の病因としては、ここに尽きると言うくらいのもので、実は今回のよもやま話でもっとも語りたかったものですが、大分長くなったので、話の途中ではありますが、次回ということにしたいと思います。  

ここまで語ってきて来て思うのですが、現代の文明のあり方をほんとに真剣に問い直す必要があるのではないでしょうかね。 

その視点や切り口は一様ではないと思いますが、確かに言えることは、人類は古代以来ずーっと健康について考え、試行錯誤を繰り返してきたということです。 したがってこの問題を考えるとき、“先人の智恵に学ぶ”ということは一つの確かな方法だろうと思います。  

まさに温故知新ですね。  東洋医学はこのテーマに関して格好の材料を豊富に提供してくれるので、また続きを書くつもりですが、今日のところはこの辺で。