東洋医学よもやま話 その9

〜物忘れについて〜

北川洋三

遠藤君のアルツハイマー騒ぎに端を発して、物忘れに関する話題が結構賑わいましたね。

諸兄の投稿を拝見し、皆さん相当自覚症状を感じておられる様子なので(小生も例外ではありませんが)、今回はその辺の話しをまとめてみようと思います。

東洋医学ではこのテーマをどのように扱っているでしょうか。

まず今回の騒ぎのもとになったアルツハイマーの事ですが、当然ながら中国医学の古典に「アルツハイマー病」なる語句はありません。

アルツハイマー病の病名は、ドイツの医師Alois Alzheimer氏が1906年に初めて症例を報告したことをきっかけに名づけられたものです。

しかし、この病気が近代になって急に出てきたと考えるよりも、古代から有っただろうと考える方が自然であろうかと思います。

古典では、物忘れの症状を色々な病名で表現しているのですが、その内のどれがアルツハイマー病に相当するのか、どれが血管性痴呆に相当するのか、はたまたどれが老人性痴呆に相当するのか、その辺は判りません。 

判らないというより中国医学の疾病感を西洋医学の病名に翻訳すること自体に相当無理があるといったほうが良いでしょう。

たとえば、古典に「消渇」という病名が出てきますが、これなどは記述されている病態から考えて、西洋医学で言うところの「糖尿病」であろうと、比較的正確に翻訳できる例ですね。

中国医学の古典では、物忘れの症状を「文痴」、「善忘」、「健忘」「喜忘」、「痴呆」などと称しています。 この中では「健忘」「痴呆」あたりが馴染みがあって判りやすいですね。

中国医学の最大の古典は諸兄もご存知かと思いますが『黄帝内経』と言う書物です。

この『黄帝内経』は『素問』と『霊枢』の二部構成になっているのですが、この『霊枢』の「海論」という章に「髄海不足、脳転耳鳴、脛痠眩冒、懈怠安臥」という記載があります。 

大まかな意味は「髄海が不足すると、頭がふらふらして耳鳴りがし、足腰がだるくて眩暈がし、やる気が萎えて横になってばかりいる」ということでしょうか、身につまされますねー。

ここで言う「髄海」とは何か?これが問題ですね。

「髄海」はまた後で論ずるとして、再び『霊枢』に戻りますが「天年」という章にこんな記述もあります。 

「六十歳、心気始衰、苦憂悲、血気懈怠、故好臥。七十歳、脾気虚、皮膚枯。八十歳、肺気衰、魄離、故言善誤」。  

これも意訳すれば「六十歳になると、心の気が衰え始め、万事悲観的で愚痴っぽくなり、元気なくやる気が衰え、ごろごろと横になるのを好む。 七十歳になると、消化吸収機能が衰え、皮膚に艶がなくなる。 八十歳になると、肺の気が衰え、頭がボケて、話す言葉が不正確になる」ということでしょうか。

これも何となく身につまされますねー。

ここでいう「心気」とは何か?  

先の「髄海」とこの「心気」あたりに中国医学における物忘れ症状に関する解釈のポイントがありそうですね。 

「髄海」というのは、脳髄と脊髄を含む知能、知覚、運動の中枢全体と考える事が出来るでしょうが、単純に脳そのものと考えても良いように思います。

この「髄海」は「腎」によって養われていると言われており、従って「髄海」が正常に機能するためには、「腎」がしっかりしていなくてはならないという事になります。

それでは「腎」とは何者か?ということですね。 

「腎」というと「腎臓」のことか、と考えると思いますが、それは少しちがいます。

我々は西洋医学的な見方に慣れているせいで、とかく解剖学で言うところの臓器を思い浮かべるのですが、そのような単なる部品(言葉は適当ではないですが)ではないということです。

「腎」の最も基本的な機能は「精を蔵する」といわれるものです。 

この腎精は生命活動の基本物質と言って良いもので、人体の生長、発育、生殖、その他あらゆる生命活動の基となるものです。 そしてこの腎精がエネルギーとなって発露されたものを原気(または元気)と呼んでいます。  

「お前、今日は元気が無いなー」などと気軽にこの言葉を使いますが、元の意味を考えれば「お前、今日は生命力が衰えているなー」とかなり深刻な感じになるのですね。 

そしてこの元気を蓄えている場所が「臍下丹田」といわれているところです。  

また「腎」は「水を主る」という機能も有しており、膀胱と協調して人体の水湿をコントロールしていると言われています。 この部分に関してのみ言えば、解剖学で言うところの「腎臓」とほぼ一致していると言えそうです。

さて問題はこの「腎精」ですが、「精は髄を生ず」といわれており、先の「髄海」の基はまさにこの「腎精」であるというわけです。 つまり、腎中に精気が充満していれば、髄海は滋養され、脳の発育や機能は健全になる、というわけです。

『霊枢』でいうところの「髄海不足云々・・」は「腎」の機能が衰えた結果であるということが出来るでしょう。

それでは、次に「心気」とは何者かということですね。

さきに「腎」は「腎臓」とイコールではないと言いましたが、「心」も「心臓」と考えただけでは不十分です。 

「心は血脈を主る」と言われており、これは血液循環の中枢ということで、このことに

関してのみ云えばは解剖学の「心臓」を考えてもかなりの部分で一致していると言って良いでしょう。   

しかしもうひとつ重要な機能があるのです。それは「心は神志を主る」というものです。

ここにいう神志とはあらゆる精神活動の中枢ということです。 

つまりこの場合は「こころ」と訓読みすれば近いのではないでしょうか。

また、敢えて解剖学上の臓器に翻訳すれば、それは「脳」と言うことになるでしょう。 

つまり「心」とは血液循環の中枢であると同時に、 「こころ」の場所でもあるというわけです。

『霊枢』には「六十歳、心気始衰云々・・」とありますが、六十歳ごろから精神活動の中枢の機能が衰え始める、と言っているわけです。

そしてさらに大事なことには、この「心」と「腎」は密接な協調関係にあるとされています。 「心」の血と「腎」の精は互いに滋養し合っており、互いの不足を補いあうようにして機能しているということです。  

「腎精」や「心血」が不足すると、不眠やら健忘やら多夢といった神志方面の症候が現れるというわけです。

この辺がどうやら、今回物議をかもした物忘れの正体ではないかと思います。

「腎精」といい「心気」といい、先天的な資質に負う部分も当然あると思いますし、年齢を重ねれば次第に衰えてくるのも自然の成り行きというものでしょう。

先天的な資質と加齢、ということならば「それじゃー、努力の余地がないからしょうがないや」となりますが、実はそんな単純なものではないようです。

現実に神志が不調(この場合は物忘れがひどい)な状態になるのは、「腎精」「心気」の不足が根底にあるのですが、更にプラスアルファが重要な要因になるということです。

さらに言えば、根底に有るというこの「腎精」「心気」不足にしても、年齢と共にゆっくり衰えるか、はたまた急速に衰えるかによって随分ちがうはずです。

この辺に努力の余地が大いに有りそうだと思うわけです。 

そして、このような症状に対する治療はそもそも可能なのか、ということも大事なところですね。

しかしこの辺を語り出すと話が長くなりそうなので、また次回ということにしたいと思います。