中欧オペラ紀行(13) ウィーン ―その5―

金子忠

―モーツァルトの「魔笛」―

 

いよいよモーツァルトのオペラである。モーツァルトと聞いて少し力んでいる。気楽にいこう。私にモーツァルト論なんか当然書けるわけがないのだから、いつもの調子で思いつくまま適当に書いてみようと思う。

人からお前の好きなオペラを10個あげてみろ、つまりお気に入りオペラベスト10は?と問われたら、そのうち3つはモーツァルトのオペラになると思う。 「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」それに「魔笛」の3つである。

 

残りの7つはその時々によって、その時の気分によっていろいろ変わりそうだが、モーツァルトのこの3つのオペラが常にベスト10に入ること間違いないと思う。

 


ウィーンの旧王宮横にあるモーツァルト像

何がそんなに私を引き付けるのか、言葉で説明するのは難しい。ストーリーは大体首をかしげたくなるものばかりである。

 

「フィガロ」は貴族の邸内のくだらないドタバタ騒ぎであり、「ドンジョヴァンニ」は好色を絵に描いたような男の地獄落ちの物語であり、「魔笛」に至っては荒唐無稽なおとぎ話でストーリーが矛盾だらけである。(上は

しかし、これらのオペラを見ていると、オペラはストーリーじゃない、音楽そのものが人を感動させる主体なのだということがわかってくるのである。
 

 

「魔笛」について書いてみる。ストーリーは簡単にいうと、夜の女王という悪い女がいてその娘パミーナがザラストロという悪玉か善玉かわからん男に囚われている、これを王子タミーノが助けに行き、めでたく救い出して二人は一緒になる、というものである。

くだらない、といえば全くくだらない、おとぎ話にしては人間くさすぎる。だいたいが夜の女王は最初は善人のはずなのが後半ではなぜか悪人に変わってしまい、ザラストロは悪人のはずが後からは善人の権化のように変身してしまう。

 

話は単純なのであるがスジがメチャクチャなのだ。(もっとも台本はシカネーダーという台本作者が書いたものであるから、モーツァルトに”責任”はないのだ!)

 

しかし、私がこのオペラに惹かれるのは、全編にわたって流れる音楽の素晴らしさである。

 

個々の歌-アリア-が人生そのものを見事に歌い上げている・・・ように感じられるからである。
 

タミーノがパミーナを想って歌うとき、それは恋人を想う男の胸のうちの切なさを余すところなく歌ってくれる。

 

鳥刺しパパゲーノとパミーナが男と女の物語を美しい曲にのせて歌うとき、なるほどここには人生そのものの真実がある、と思わせるのである。

 

誰しもが心のなかにしまってあるものとオペラの中のアリアが共鳴する、心の琴線に触れる、といったらいいのだろうか。

 

小椋佳の歌の一節に”人は哀しいもの〜人生って不思議なものですね”さらに”人はか弱いもの〜人生って嬉しいものですね”というのがあるが(愛燦燦)、こうした感慨、あるいはある種の悟りの集大成になったようなものが、モーツァルトのオペラにはあるのである。


夜の女王とパミーナ

 

小椋佳のうたを聞くとしみじみと共感するものがある、と同じようにモーツァルトの音楽を聞くときもなるほど、人生ってのはねえ・・・という共感、共鳴が胸のうちに沸いてくるのである。

不思議に思うのは、モーツァルトは「魔笛」を作曲したとき若干35歳、35歳の”若者”にどうしてあんな人生の機微を知り尽くしたような音楽が書けたか、ということである。

 

いくら早熟の天才と言ってもである。私などはこの歳になっても”人生とは?”などと問われたら考えるのも面倒になって、すぐにお酒の世界に飛び込んでしまう。

そこが天才と凡人の違いなのであるが、モーツァルトは実はこのオペラを作曲した後まもなく死んでしまうのである。本当に惜しんであまりある早世である。あと10年も長生きしていたらどんなにかいい音楽をたくさん残してくれたであろうに・・・と本当に思う。

凡人の65年は天才の35年の足元にも到底及ばない。いやいや大体において、自らを「教祖さま」と比較対比しようなどというのがそもそも畏れ多いことで、畢竟これにはタタリがあるであろう。

こんなくだらないことを書いていては本当に畏れ多いのでもうやめにするが、現実に戻って、「魔笛」をどこで見たかくらいは書いておきたい。

前にもちょっと触れたが、ウィーンには有名なオペラハウスが二つあって、一つは言わずとしれたウィーン国立歌劇場、もう一つがフォルクスオーパーである。
 

今回「魔笛」はフォルクスオーパーで見た。こちらはオペレッタが主体の劇場であるがモーツァルトのオペラはここでもかなり上演されるようである。国立歌劇場に比べてこちらはやや庶民的雰囲気があり親しみやすい。歌手の年齢も平均的に若いようで、今回の「魔笛」も若々しい気分にあふれた舞台だった。

これに出てくる夜の女王の役は何ともいえずおどろおどろしい役柄で、非常に難しいウルトラC難度のアリアが二つある。今回の歌手は初デビューとのことで何とか無難にこなした、という感じでも物足りなかった。私の持っている古いCDではルチア・ポップという往年の名歌手がこの役を見事に歌っていて気に入っている。LD(DVD)では、エディタ・グルベローバが歌も容姿もよく、ほれぼれしてしまう。

パパゲーノはオペラの中の役柄としてはひょうきんな若者なのだが、歌は実に含蓄に富んでいて、歌い手はある程度の年齢にならないと味が出ない。

 

今回の歌手も若くて歌は上手だったが、人生の機微を歌うには少しトシが足りなかったように思う。古いCDのワルター・ベリーがいい。


(こういうことを書き出すときりがないのでもうヤメよう、オペラ全体としては大いに楽しめたのだから)

左の挿絵は”初代”鳥刺しパパゲーノの舞台衣装。なんと初演では台本を書いたシカネーダー自身がパパゲーノを歌ったという。この人はよほど多才な人物だったらしい。


ところで、今回の「魔笛」には観客の中に子供がかなり混じっていた。さらに翌日だったか国立歌劇場の前を通ったところ、子供がワンサと集まっていてナニゴト?と思ったことがあった。

 

現地の日本人ガイドの話によると、これは「魔笛」を小学生に見せるイベントで、この日(昼間)だけ国立歌劇場を子供達に開放するのだそうだ。このような催しは時々あるらしい。

ちょっと驚いた。国立歌劇場を小学生のために開放して「魔笛」をみせる! 

 

素晴らしいことだ。ウィーンの子供たちは幸せだよ、マッタク。  フォルクスオーパーの「魔笛」にもそんな意味合いがあったのかもしれない。

しかし”子供向きの「魔笛」”ってどんなものか、非常に興味があったのだが、内容についてはわからなかった。

 

音楽は変えるはずがないから、演出で多少子供向きにしているのだろうか。ダイジェスト版のするのだろうか。  ここは是非子供達と一緒に舞台を見たかった〜。

翻って、日本では歌舞伎座を子供達のために開放するという催しはあるのだろうか。少し気になった。

O先生の話では、ヨーロッパでは、オペラは原則子供は入場禁止。これは伝統的にオペラは大人の楽しみであり、モノによってはかなり際どい演出のものがあるからであるが、モーツァルトの「魔笛」とフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」だけは子供OKなのだそうだ。
どちらもメルヘンだし、教訓的なセリフ、歌詞が多いので教育上は確かに好ましいだろうが、それ以上に音楽教育としてはこれ以上のものはないであろう。

そういえば、「魔笛」はモーツァルトが入会していた啓蒙的秘密結社「フリーメーソン」の影響が強いと言われる。たしかにザラストロは高僧なだけにお説教ばかり垂れている。「魔笛」ではここだけが少しつまらないと思う。(音楽はいいのだが)
 

モーツァルトは「フリーメーソン」の活動にもかなり積極的に参加し、会のためにたくさんの曲も書いている。 このことを考えると、モーツァルトは単にいたずら好きのやんちゃな若者ではなく、すごく生真面目な側面があったように思う。映画「アマデウス」の中のモーツァルトは実像とかけ離れているのではないか、とふと思った。