金子忠次
―ザルツブルク その3―
―ザルツブルク州立劇場のオペラ「ロミオとジュリエット」(グノー)―
ザルツブルクではオペラはグノー作曲の「ロミオとジュリエット」を見た。シェークスピアのお馴染みの戯曲だからストーリーなどは大体知っていたが、オペラで見るのは初めてである。
劇場は「ザルツブルク州立劇場」。ここはオペラハスウスとしてはややマイナーな存在だが、18世紀に建てられたもので、もとは宮廷劇場だったそうだ。由緒ある建物なのである。 「祝祭劇場」が名実共に巨大すぎて蔭にかくれているが、こちらも凄いのだ。(上の画像はPR資料からの借り物)
この州立劇場のすぐ近くにモーツァルト一家の住んでいたという家がある。(生家とは別で、モーツァルトは17才から25才までここに住んだ)
モーツァルトが住んでいた頃にこの劇場が出来上がって、彼はここで旅回りの一座のオペラをよく見たという。大変な謂れのあるところなのである。 このことは後で知って驚いた。
もと宮廷劇場だけあって中はやはり豪華である。
客席は3階まであって伝統的な馬蹄形をしている。
それと、ここの座付きのオーケストラは、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団であることも後で知った。
事前にわかっていればその積りで聴いたのに、惜しいことをした。わかっていたからといってどういうこともないのだが・・・・・
さて、本題のオペラであるがこの日は、いささか、いつもと違った。
演出が伝統的な演出ではなく、時代を現代に置き換えての新規な演出なのである。
原作は14世紀イタリアのゼノアが舞台なのだが、これを全く別に解釈して、現代の出来事としてドラマが進行していく。ただオペラとしての音楽はそのままである。
この日の演出は音楽学校かなにかのオペラの練習風景の中でいろいろな出来事が起こった、という想定らしい。
場面は学校の教室そのもののつくりで、学校と同じように机と椅子が配置されている。
ロミオもジュリエットも練習生?の一員である。
音楽は本来のオペラのもので変わっていないから、音楽だけを聴く分には全く問題ないのだが、我々としてはどうしても違和感がある。
14世紀の話がどうしてこうなっちゃうの、という感じは否めない。
ヨーロッパでは近年、こういう演出が、特にシュツットガルトやジュネーブといった地方のオペラハウスを中心に盛んに行われているようだ。
中でも、上記の2つの歌劇場はそれで高い評価を得ている。しかし、我々のような素人はついていけない。
歌舞伎を衣装も舞台もメークも今風にして、セリフや鳴り物だけはもとのまま、でやっているようなものである。「勧進帳」を背広を着た役者がやっているようなものだ。違和感があるのは当然である。
というわけで、この日はドラマに入りきれなくて、本当に感激したとか、感動したということはなかった。
しかし、音楽としては、十分に楽しんだ。歌手はそれぞれ熱演していたし、声もよかったと思う。
まァ、こんなこともあるのだ。いい勉強になったとしよう。
左の写真はカーテンコールのときのもので、中央がジュリエット、左がロミオ。この二人は若いがしっかりした歌いぶりで好感がもてた。
前述したようにヨーロッパ(アメリカも含めて)でこういう演出が流行っている背景には、オペラと言う舞台芸術の成熟度という点がポイントとしてあるようだ。そう考えると、ある程度は理解できる。
というのは、向こうでは各都市にあるオペラハウスでシーズンには毎晩のようにオペラが演じられているが、上演されるオペラの演目は結構限られている。
主に(頻繁に)演じられているのがどれくらいあるかは想像するしかないが、恐らく100〜150くらいではないか(相当いい加減な数字だが)と思う。ウィーン国立歌劇場の場合1シーズンの演目数は40くらいである。
ということは、オペラハウスの数まで勘定すると同じオペラが毎年あちことで何回となく上演されているわけで、観客側からすると、オペラの好きな人は同じものを何回も見ることになる。
そうすると、オーソドックスな演出のものばかりでは、見る方も飽きてくるのではないか。
これはかなり皮相的な見方で、本当はオペラを今後も長生きさせるためには、現代風の演出は必要なもの、というより当然の帰結なのであろう。
我々は、そう何回も同じオペラを見るわけではないので、たまに見る時にはやっぱりオーソドックスなものを見たい、というのが人情なのである。そのうちに日本でも同じように斬新な演出のオペラが行われるようになるのかもしれない。
最後にザルツブルクの絵葉書風写真(観光資料からの借り物)。いつかこの写真のような緑の季節にこの美しい町を訪れたいものである。
<つづく>