ひょっとしたら、かなり前のことですがナンカの席上で木版画を始めたと口走ったことがあるかもしれません。
その時以来ほとんどずっと(ほとんど毎日)6年間やり続けています。
ついでに書くと、それ以前の65年弱の間はこんな世界があることについぞ関心もなく、もちろん手がけたこともないのでありました。
こんな世界
版画の世界は極小さなものです。
きっと、皆さんの周りにはカルチャーセンターなどがあちこちにあって、英会話・油絵・水彩画・日本画などの教室は時には1つのセンターに2つか3つあるのも珍しくないのでしょうが、版画の教室などがあることは滅多にないか全くない、ましてや木版画教室などとなるとそれに関わるセンセーもセートも異常人格の持ち主と思われるほどマイナーなのであります。
あんな世界
数年前、あたくしの住まいする堺市というところの市展に1度だけ出展したのですが、あたくしの作品のサイズは30cmくらい。それにくらべ、どこかのご婦人が同時に搬入して来た油絵はメーターを優に超すものなのでびっくりこいたのでありました。
洋画(版画も含む)部門、日本画部門・・などといっしょくたにくくられ、メーターもんと30cmもんとが同列に比べられたら情けない話だが先ずは大きさでトッテモ歯が立たない。
加え、これからが恐ろしい話ですが、作品1点ごとの講評のとき審査員が『これは、版画だそうです(はい、サイナラ)』といったときにはさすが温厚なあたくしも激怒しましたね。
市で選んだ審査員でさえ版画のことを云々する器量がない堺市など、すぐにオンデテやる、税金など払ってやるもんかと思いはしたのですが、残念ながら市民税などほとんど払っておらず、引越し先の当てさえないことに気づいたのでありました。
このように、版画の世界は極々小さく、他の方々にとっては日常からは程遠いものなのであります。
こうした堺市事件以後あたくしも十分に賢くなって、洋画(版画も含む)部門などといういい加減なくくりの展覧会には出展せず、ちゃんと〈版画部門〉が独立しているところを目指しているわけであります。
今回の世界
いよいよ、『国展』というものに出展した自慢話に入るわけですが、ここの部門区分けはしっかりしており極めて上等な分野である〈油絵〉、〈日本画〉などの部門とあんまり上等とはいえない〈版画〉の部門ははっきりと分かれているのであります。
ということは、〈油絵〉や〈日本画〉の部門では、20点に1点が入選すると、なんと、出展数が愕然と少ない〈版画〉部門では、2,3点に1点は入選するのであります。
もし、奇跡的に(間違って・驚いたことに)入賞なんどするとすると、マー、フツーは、どの部門でも賞の数自体はいっしょか大差なしで、加えて、仮に、賞金でもつくケースではこれまた弱小部門であるから賞金少なし、などということはないのであります。
このあたりで、あたくしが版画をやるようになった先見の明が少しずつ明らかになり始めたでしょう。
作品のサイズについて一言
上のほうに、あたくしの作品サイズがどっかのおばさんの油絵に比べてずい分と小さいと書きました。
木版画を摺る時には、絵の具の載りがいいように紙を湿すのが重要な工程です。
そして湿したことでふにゃふにゃになってしまった紙を両手で支え持って、版木の狙ったところにピタリと置くためには普通は、両手の巾以上のサイズは扱えない。
それどころか、数十センチくらいが適当なところでしょう。
ジュディー・オングは、優に2メートル近い木版画を作ります。
あたくしの偏見では、彼女は金に飽かして湿った紙の支え役の男を雇っているのではないかと思っています。
ソーでなければ、あんなふにゃふにゃした、でかい紙をうまく扱えるはずがない。
あたくしも次に生まれ変わったら、世の中の金を集めまくり、支え役の奴隷を買って馬鹿でかい版画を作ってやるぞ!
江戸の版画のサイズはほぼ決まっていたようで、北斎だから広重だからでかい版画をやっていたなどということはなさそうです。
版木や紙のサイズにも制限があったのでしょうが、「両手の巾以上の湿った紙は扱えない。」というところから絵の大きさが決まってきたのではないか。
版画を6年ほどやり続けているというところに戻りまして
いつかの会合でどなたかさんが毎日素振りを数時間は欠かさないと発表されましたが、なかなかそれには及ばないものの(だらだらと)1日に3時間くらいは版画に関する何かをやっているのです。
なにかって、なんだというと〈下絵描き〉、〈彫り〉、〈摺り〉などでありますが、彫り終わった後の《彫りすぎた箇所の接着》や摺りの後の《穴ポコの筆補修》なども重要な作業でありまして、とってもおろそかに出来ないのです。
このくらいやって、6年も続ければなにものかができあがるであろうと誰でも思うところでしょうがこれが期待はずれで、先日も気まぐれにこの数年間の作品を見比べていて愕然としたのですが、2,3年前のものと今のものとナーンニも変わるところがない有様です。
では、この6年ほどであたくしがどう変わったかを2,3点述べます。
1つ目、些細なことに喜びを感じるようになった。
それは、版画を摺るときに使う〔馬簾〕という丸い手動プレス(?)があり、これは1番外側を竹の子の皮で巻いてあるのですが、この皮が馬鹿力で摺るため時々破れることがある。
これの補修は新しい皮を湿気で柔らかくして手動プレスを包みなおすのですが、なにさま根が不器用なのに加え、竹の子の皮が裂けやすい1枚ものであるためツツゥーと筋が入ったら一貫の終わりです。
まれに10回か20回に1回、成功するとその喜びは実に一杯飲むのに値するほどです。
たかが竹の子の着物1枚でドーノコーノいうのは笑止なことではありますが人間が単純になり、毎日の生活も単調になるとこういった事態に陥るのでありましょう。
2つ目は、ものを見る目が狡すからくなったことです。
前の65年間は風景や花や屋根や南の方の山を見ても昔の人ほど悠然としていたわけではないものの、マー特に目くじら立てることもなく穏やかな気持ちで眺めていたのですが、この数年間は目の中にくじらが住み着いたのではないかと思われるほどで『なんか、いいネタはころがってないか』というさもしい根性の、卑しいまなざしが我ながら恐ろしい。
ネタになりそうもないと分かれば『ヘッ』 というようなもんです。
時には一部の昔の仲間からは、神田の目つきはズート前からそんな、スケベ根性丸出しで、今とあんまり変わりないという意見も聞きますがね。
少し、展覧会の話に戻ってお終にします。
去年から4つの作品(?)、(こう書くたびに、なにが気取って作品か!と面映いです)を出展しました。
2つ落選、2つ入選で賞を貰ったことは皆無でありました。
出展のたびに、入賞の賞金が頭をかすめ、今回の六本木の会場へは新幹線グリーンで車中どろどろになるほど酒を食らって、ゴーカホテルに宿を取りなどとあこがれの賞金稼ぎの我が身を妄想していたのですが、いまだ金を取れるほどの腕にはほど遠いことが判明し、久しぶりの上京もおじゃんになりました。
作品(?)の「忍ぶの森・・」という題は、この風景が和歌山県の根来寺の林で、根来であれば〈忍びの者〉という発想でした。
最後に、全く本質でないことを書きますが、絵の出来具合がいまいちであるのを大いにカバーすべく、我が作品の題(だけ)は一筋縄ではいかない工夫を凝らし、題だけはなかなか捨てがたいものと評判を取りたいと念じています。
もし、次に天の教えとお助けがありチャンスをつかめれば、続編を書かせてください。