太田道潅公のお墓改修

堀尾公亮

江戸城築城で有名な太田道潅資長(すけなが)は鎌倉の英勝寺で生まれ、主君扇谷上杉定正の家宰として、5才にして建長寺及び足利学校で学問をおさめ又鎌倉幕府崩壊後の関東地方の戦国時代を武力でまとめた文武両道の鏡として戦前の高等小学校の修身の一番初めに取り上げられていました。

平成23年の夏太田道潅の研究者で「道潅紀行」の作者 尾崎 孝氏が英勝寺の裏山にある道潅の供養塔がひどく荒れているのを発見され、鎌倉市役所の文化財課に修復依頼を申し入れましたが、市の文化財に指定されていないという理由で断られました。

そこで松尾たかし市長が、建長寺の経営にかかわる鎌倉学園の卒業生であるので道潅直系で18代目に当たる太田資暁(すけあき)氏(元東京海上専務、出光興産監査役)を中心に、小生も母方の祖父が山吹伝説の乙女(紅皿)との間にできた13代目の子孫であり、同じDNAを持つものとして市長に直接並びに文書で修復を依頼した。

平成25年2月18日市長より黙認するとの通知があり、同年5月15日資暁氏と小生は早速英勝寺の柳田尼住職の所へ行き快く賛同を得ることができた。

平成26年工事は短期間に終わり、11月22日無事開眼供養の法要を行った。

今回の工事で、郷土史家の内海恒雄氏の調査の結果、通説では道潅の首は伊勢原市の大慈寺にまた胴体は、洞昌院葬られているとされていましたが、英勝寺のものは供養塔ではなく、文政九年(1826年)水戸徳川家の子孫が再建した道潅公のお墓であることが判明した。 


開眼供養の際の資暁氏と小生

駄足

暇があればインターネットで、道潅を検索すると、江戸城再建、山吹伝説の諸説、落語道潅などが聞けてなかなか面白いので、ご紹介いたします。