堀尾公亮

才葉会への投稿は、久し振りである。

10月6日の卒業50周年記念の同窓会は、皆さんに久し振りにあえて大変楽しかった。 幹事の方々、大変ご苦労さんでした。

ところで東日本大震災の後、「海賊と呼ばれた男、上下2巻は、」発売と同時に、270万冊も売れたという大ブームを巻き起こしたのは、ご存じだろうか?

百田尚樹さんは、出光佐三という人物には、1面識もなく今はやりのリストラや、出勤簿もなく、ましてや残業手当もないという変った変わった会社であるが、それでも今年で創業102年を迎える。

この小説は終戦後から始まっているが、百田氏は放送作家出身らしく登場人物の名前こそ違え、ほとんど事実のままである。

私と父は親子2代にわたって、佐三さんの弟子、孫弟子として仕えてきたので、私の生まれたころからの話を進めたい。

私は昭和15年朝鮮の太平洋側にある、江原道江凌というところで生まれ、大東亜戦争がはじまり、石油などが一滴も入らなくなり、オランダの植民地として圧制に苦しんでいた、ジャワ島を占領した。この辺の事情は三菱石油の元工務課長をしていた団長とする、千代田化工元社長玉置明善氏の「石油技術者たちの、太平洋戦争」に詳しい。

出光もその元海軍の石油集配業の手伝いをすべく、精鋭部隊約150名を家族を、京城に残して応援に赴任した。

やがて終戦となり、私は5歳になっていたが、2番目の妹を終戦の10日前に、小児結核で亡くし、わたしが遺骨を、そして母が位牌をもって、貨物列車に乗せられて、釜山の埠頭で引上げ船を待つため一夜を明かした。10月中旬とはいえ寒かったことを覚えている。

内地では行く当てもなく、とりあえず親父の親類に居候した。

約1年後の8月親父は服役中のオランダ軍から解放されて帰国再開した。親父はしばらく休んだ後、佐世保の旧海軍タンクに残っている残油の回収のため、一家は佐世保に移り住んだ。

その仕事も一段落すると、昭和22年出光ラジオ店の仙台支店長として、一家は仙台に移り住んでいった。

昭和24年石油元売り会社の認可が下りるや、東北管内の支店、出張所や販売店の確保に努めた。

 

 

その功が認められて、戦後初めての石油会社による自社船の建造が認められて、初代船舶課長に栄転した。社宅は、鎌倉に借りていただき私は、小中高校までを過ごした。


私の仕事は日章丸が兵庫県の播磨造船所(今の石播)急に決まる出張用品を歌舞伎座の隣にある出光ビルに横須賀線に乗って約1時間かけて届けるのが仕事でした。
その後のことは本に書いてあるとうりです。 

参考:日章丸事件               [Wikipediaより WebMaster 遠藤転載]

1953年、日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港。

英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。

このとき、出光佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。