船田壽男
戦時中、日本の戦闘機製造工場で台湾の少年たちが働いていたことを知った。
台湾少年達は、全国の工場に配属されたが、大部分は大和市の工場に配属されたという。
これに関しては、野口毅編集『台湾少年工と第二の故郷』展転社に詳しく、関連遺跡が身近にあったので訪ねた。そのときに感じた事をこの本を参考にして、記した。
台湾出身の大島さん、李さんにしかられるかも知れませんが、思いきって書きました。ご批判がありましたら、お知らせください。
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神奈川県大和市の大和駅北口から西(海老名)の方向に相模鉄道線に沿って10分ほど歩くと、右側にかなり広い森がある。引地川ぞいにある泉の森公園である。その公園の一角に六角形の異国風の建物がある。台湾亭である。
標識もほとんどなく、どこにあるのかチョット見つけるが大変であるが、当てもなく歩いているとこんなところにと思うようなところに、静かに建っている。 その建物のそばに「台湾亭志」と題する次ぎのような銘文がかかれている。
『台湾亭
第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため青少年約八千四百余名が この大和市に新設された高座海軍工蔽に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた。
その間米軍による本土空襲により 多数の犠牲者も出 戦後そのまま在留したもの以外大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え落ち着きを取り戻した時若き日の夢を托した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた。
一九八七年台湾高座会が発足 一九九三年日本高座会による五十周年記念大会に一千三百余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった。
ここに両地の親善交流を 記念するとともに 世界平和への祈願をこめて 台湾亭を大和市に寄贈し変わらざる友好のシンボルとする
台湾高座会 | |
一九九七年九月六日』 |
この説明文は、戦争中の昭和18年から台湾の15才位(13〜20才)の若者8千4百余名が日本に来て、寄宿舎で団体生活をしながら、工場に通い、戦闘機製造に携わった事、そしてその人たちが今も台湾高座会という団体をつくって親睦をはかっていることをのべている。
戦前の日本の情報は、歪曲されて、悪い事ばかり教えられ、本当の姿を教えてくれる事がどんどん少なくなっていく中で、一年ほど前、この話を聞いたとき私は涙が出そうになったが、何故かホッとしたのを覚えている。
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善徳寺の慰霊碑
ふるさとに 別れを告げて 飛機造る おもふこころは 唯国のため
このうたは台湾少年工の日記に書かれた一首という。彼等の寄宿舎生活は、一室10人の生活だった。夜になり飢えや寒さに耐え、故郷を思い出して、一人が啜り泣きを始めると部屋全員が大声で泣き出すようなこともあったという。
台湾亭のある泉の森公園の北側に隣接して善徳寺という寺がある。正門を入ると右側に鐘楼が建っていてその南側に鐘楼を背にして建っているのが、空襲などで日本で亡くなった戦没台湾少年の慰霊碑である。慰霊碑に刻まれた文の一部を抜粋する。
『… 悪環境を克服し困苦欠乏に耐え.....良くその責務を完うせり.....遺骨は故郷に帰れど.....異郷に散華せる少年を想う時.....涙また新たなり 』
私が訪れたときは、この碑文には拓本をとったあとが鮮明に残されていた。
少年を死なせたことに心を痛めていた当時の海軍工蔽技手の早川さんという方が私財を投げ打って、亡くなった少年達の供養のために、この慰霊碑をたてた。昭和三九年、日本がオリンピックで浮かれていたころのことである。慰霊碑の存在については、戒厳令のしかれていた台湾ではその後20年以上知られなかったが、次第に知られるようになり、最近はときどき善徳時を訪れる方もおられるという。
少年工の人たちは、海軍の所属であるから、亡くなった人たちは、靖国神社に祭られているかもしれないと調査をされた人もいる。前述した本の編者野口氏等である。250万枚近い紙を一枚一枚めくって氏名を調べる膨大な作業は神社の関係者がしてくれたようだ。そして四十名が合祀されていることがわかった。書類が全部残されていることも驚きだが、それを調べてくれた人たちもよく協力してくれたとおもう。
種種の事情により手続きの洩れていた人たちも最近(平成11年)手続きがなされ、最終的に日本で亡くなった52名の台湾少年が靖国神社に合祀された。
台湾から関係者が来日したときは、靖国神社に参拝される方が多く、今年の8月15日には、台湾の関係者約十名と野口さんが一緒に靖国神社に参拝したとの記事が新聞に載っていた。
なお蛇足であるが、靖国神社への合祀は、所定の審査を経た後、天皇陛下に上奏してなされるのだそうである。
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これから...
台湾の人達に親日的な人が多いのは、戦後台湾に渡った中国人のヒドサに助けられた一面もあるが、戦没台湾少年の慰霊碑を建てた早川さんや靖国神社への合祀に奔走された野口さんのような人たちの存在も大きいと思う。
当時の少年たちは、すでに七〇才台半ばになり、毎年会合に集まる人数も減っているという。いつまでこのような記憶、私たちの先輩が残してくれた遺産が残るのであろうか?日本人が悪かったという話だけになってしまうのであろうか?
善徳寺を訪れた人の中には、つぎのような文を残している人も居られるという。
「大和市の善徳寺の太平洋戦争戦没台湾少年の慰霊碑の碑文を読み返す度に、新たなる涙の頬を伝いくるを禁じえない。
これは遠い歴史の回顧ではない。遠い異国の物語でもない。私の竹馬の友が何人も高座海軍工蔽で働いていたのだ。
一死を免れ故郷に帰った者も遂に進学する機会を奪われ人生の夢を無残にもこなごなにうち破られたのである。
しかしこれはほんの一例にすぎない。大日本帝国の為、少年志願兵、学徒兵、軍属となって生命を奪われ、人生を狂わされた台湾人は数知れず、私もその一人である。」
このような人たちがおられるのもまた戦争の傷跡である。決して、台湾の人たちがいつまでも親日的であるという保証はない。
台湾は、戦後国民党軍によって蹂躙され、日本よりもずっと苦しい状況下に置かれた。
台湾では、中国からやって来た外省人と呼ばれる約15%の人たちが、政治の実権をにぎってきた。昨年本省人である陳水扁氏が総統に選ばれ、変わるかとも思われたが、実態はどうなのだろうか?
戦後反日教育を受けた人たちも育っている。反日的な本省人も大量に育っている。台湾外務省は、中国政府の傀儡とも言われているらしい。
雑誌「正論」5月号に次ぎのようなに文が載っている。
『.....台湾本省人が再び本当の親日家となる日があるのか、と言えば「難しい」と解答するしかない。なぜか?
米国は事あらば第七艦隊を台湾海峡に派遣して台湾を防衛する意思を鮮明にした。台湾の外交は99%米国を見ており、エリートは全て米国へ留学する。
ひるがえってわが国は外交的に台湾を無視してきた。北京にペコペコし中国共産党指導者に尻尾を振ってなびく政治家、台湾に冷淡なマスコミを見れば重ねての説明はいるまい。(宮崎正弘)』
未だに、国旗もない国を、日本の進歩的文化人や一部のマスコミは、省みる事もしない。
最近の動きとして、親日的な李登輝元総統の日本入国さえ認めようとしない状況がある。アメリカやヨーロッパなどには自由に行っているのにである。日本の外務省の“ことなかれ主義”には怒りを禁じえない。民主党にさえ反対する人がいるのだ。あきれてものもいえない。
台湾の外省人が反対しているという説もあるのだが、少なくとも、台湾本省人には、日本が見方であることをメッセージとして送りつづける必要がある。
今後、台湾もまた“日本”に対して謝罪を求める国になるのであろうか?これは時間の問題なのか?日本人は謝罪を求める国にしか顔を向けてくれないではないかという疑念が既に宿り始めている。
もしそのように進行するとすれば、現在の中国や韓国の要求と同様に、戦後の謝り癖・戦後日本人の態度が呼びこんだものである。
“戦前の日本は悪かった”と私たちの先祖の顔に泥を塗ったのは、戦後の私たち自身なのだ。
以上
筆者の近況
2年前、定年退職し「歴史の勉強、詩吟、囲碁」を趣味として生活していたが、今年3月より、週2日程度アルバイト中。
現在は公私ともに多忙。・歴史は、古代史が主体だが、近現代史も少し。
・詩吟は、朝翆流、詩吟歴約20年、風呂の中で大声出してストレス解消
・囲碁は、自称アマ4段、地域住民の同好会が主戦場