「子供」の表記について

(「子ども」と書くのは非常識)

船田壽男

 

最近、「子供」のことを「子ども」と書く人が多い。市役所などの発行する広報誌などを見るとすぐに見つけることができる。NHKまでが、この頃テレビのテロップに使い始めた。あまりにもあちこちに氾濫しているので、つい使ってしまいそうである。パソコンのローマ字入力で”kodomo”と入力すると、”子ども”が出てくる。従って、何気なく使ってしまう人も居るに違いない。

 

しかし、私には、大人が「子ども」と書くのは、あまりにも非常識に見える。

 

以下に、「子ども」の表記がおかしい理由について纏めた。

 

日本に、「こども」と「おとな」という言葉がありました。「こども」に「子供」、「おとな」に「大人」という漢字をあてました。すなわち「子」と「供」の二つの漢字で「こども」です。「大人」という字が「おと・な」にも「お・とな」にも分割することができないことから明らかでしょう。これを漢字を知っている大人が「子ども」と書くのは、日本語表記の成立ちを破壊する行為です。

 

しかも「ども」とは、「野郎ども」など、人を見下して呼ぶときに使う言葉なのです。「ものども」というのは、従者や身分の低いものに向かって使う言葉です。「わたくしども」は、自分達のことを謙遜して言うとき使います。従って、「その方ども」というのは、相手を見下して使う言葉になります。これらは、辞書などを調べてみれば明らかです。

 

このような「ども」の使い方から、子供が自ら「子ども」と書くのは謙遜して使っていると言えるかも知れないが、大の大人が「子ども」と書くのは、子供を見下して書いていることになります。

 

「子ども」という表記は、共産党関係者が最初に使いはじめたようだ。共産党の言うように、「供」が「お供え物」を意味するからと、「こ」と「ども」を分割してはいけません。もし、そのように分割することが許されるなら、「供」という字は、「人」と共産党の「共」に分割することができます。従って、「供」という字を否定するならば、共産主義は、人の存在とは両立しないということになります。人と共にあるものが、どうしてお供え物になり、お粗末な物になるのでしょうか?たとえお供え物を意味するとしても、極めて大切なものを意味すると解釈すべきです。

 

「子ども」という表記は、「子供」という表記を駆逐しようとする「言葉狩り」であることが分かります。このような「言葉狩り」には、独裁主義者と同じ「言論弾圧」の兆しが伺えます。

 

多くの人が「子ども」と書くのは、「子供」という表記を意図的に駆逐しようとする人達が存在するからだろう。恐らく中学校か高校の教師のなかに、「子供」が差別語であると教える人が居るに違いない。しかし、「子ども」と表記しなければならない根拠は全くない。むしろ「子ども」の方が差別語であり、日本語の成立ちを破壊する行為なのである。

 

この稿、塩原経央著「『国語』の時代」鰍ャょうせい 平成16年2月25日発行を参照して書いた。御意見ありましたら、どうぞ。     
 

以 上

 

平成16年6月4日