1月1日は何故あの時期にあるのか?

遠藤興輝

11日が、何故あのような季節にあるのか、あの時期が年の初めである(となった)理由は何なのか?という疑問を抱いて久しい。

 

たまに、関連する本を読んだり、話を聞いたりしていたが、どうも今ひとつ腑に落ちないで居た。

 

たまたま、図書館で、暦関連の本を数冊見つけたので、これを一気に読んでみた。どうやら、長年の疑問の答らしいものが分かってきた。

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問:なぜ、11日はあの時期にあるのか。
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答:春分を321日にしたからである。

つまり、春分を321日にしたために、その79日(閏年では80日)前が、11日になったというのが直接的理由のようである。

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問:では、何故、春分を321日としなければならないのか。
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答:キリスト教の復活祭の日取りを春分と整合させるためである。

復活祭の日取りは、ユダヤ教(ユダヤ暦は太陰・太陽暦)の過ぎ越の祭りに由来しており、「春分もしくはその直後の満月の後の最初の日曜日」とすると定められている。

 

紀元325年、ニケアの宗教会議で復活祭の日取り決定に、アレキサンドリア流復活祭の日取り方法が採用された。この方法では、春分は321日で暦面上固定されていた。

 

一方、ユリウス暦は、1年を365.25日として4年に1回閏日を加える暦だが、実際の1年(365.2422日)と0.0078日の差があり、この差が積もり積もって、16世紀後半には、実際の春分は321日ではなく311日頃になっていた(ニケアの宗教会議から1257年 → 12570.00789.8日のずれ)。

 

これを訂正するため当時のローマ法王グレゴリオ13世が、改暦を提案し、1582104日の翌日を1015日とした。これが、現在のグレゴリオ暦である。

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問:では、何故、ニケアの宗教会議頃の春分が321日であったのか
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答:当時、ユリウス暦で321日が秋分だった。

グレゴリオ暦以前の暦は、ユリウス暦である。これは、シーザーにより、紀元前46年に施行が決定され、紀元前4511日から施行された。

 

といっても、ユリウス暦以前にローマで使われていた暦はユリウス暦ではない。ローマ暦と呼ばれる太陰太陽暦で、当時、ローマ暦は相当混乱していたらしい。

 

シーザーは、ユリウス暦施行の前年、通常の太陰太陽暦の閏月の他に、2ヶ月(67日)の閏月をおき、実に445日間という1年とした。

 

何故、そのような荒療治をしたか。当時のローマ暦が大変混乱していたこともあろうが、何か目的があって、11日を設定したと思われる。

 

古ローマ暦は、年初月は MartiusMarch)であった。第2月以降 AprilisMaiusIunius と神の名に基づく月が続き、 さらに、Quintilis(第5月の意で以下同様)、SextilisSeptemberOctoberNovemberDecemberと序数の付いた月が設定され、その後、次の年初月 Martius までの2ヶ月ほどの期間には名がなかった。

 

農作業の始まる春の新しい年が始まり、収穫を持って終わるという考え方であったようだ。

 

因みに、第5Quintilisは、後に、シーザーを記念して Iulius、第6Sextilis はアウグストスを記念して Augustus と改名された。

 

その後、名前の無かった2ヶ月にも IanuariusFebruarius の名が与えられ、ユリウス暦制定当時には、年初月は公的には、Ianuariusになっていた。

 

これが、本来第7、第8、第9、第10を意味知る September 以降の月名が現在、2ヶ月ずれていることの背景である。本によっては、シーザー、アウグストスが月を挿入したためのように書いてあるものもあるが、JulyAugust は月名の変更であって、挿入ではない故、月名のズレの理由ではない。

 

公的には、Ianuarius が年初月でも、実生活では、Martius を年初とする慣行が強かったようで、それが、ユリウス暦施行後の閏日を、最後の月 Februarius に置く慣行 (余り物扱い)に繋がった。

 

閑話休題、ユリウス暦施行の11日の翌日が、古ローマ暦(太陰暦)での11日に当たっていた可能性が高いことが分かっている。現在の天文知識に依れば、ユリウス暦施行の11日の翌日が(朔=新月=陰暦一日)に当たっていることが判明している。

 

一方、紀元前千年頃は、春分3月31日、夏至7月3日、秋分10月2日、冬至1230日(ユリウス暦で)...2至(冬至・夏至)2分(春分・秋分)が季節の変わり目とほぼ一致していた。

 

という事情を考えると、ユリウス暦は、年初を冬至の近くに置いたと推定される。つまり、ユリウス歴は、冬至1月1日、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計したのではないか、また、それが、 各月の日数配分(冬の期間の一月が短い)にも反映されたのではないかと推定される。

 

ユリウス暦制定は、紀元前44年であり、紀元前1000年ではないが、制定当時の天文知識が古いものであったとも考え得る。

 

シーザーが、ユリウス暦施行の直前の年を445日という変則的な年にしたのは、このような設計、そして、 古ローマ暦での11日と合わせる為のものであったと推定することができる。(確たる証拠があるわけではない)

 

要するに、現在のグレゴリオ暦の基となっているユリウス暦では、11日を冬至に置き、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計した可能性がある。

 

しかし、前述の通り、ユリウス暦が1年を実際より長めに取っていることや、地球軌道が動いていること、地球自体の歳差運動もあって、実際の暦はそのような設計から大きくずれてきている。

 

現在、冬至:1222日頃、春分:321日頃、

夏至:621日頃、秋分:923日頃

 

紀元325年のニケアの宗教会議の頃は、実際の春分は321日になっていた。

 

16世紀、復活祭の日取り決定のためニケアの宗教会議以来、暦面上固定していた321日春分を実際の春分に合わせるべく、1582年グレゴリオ暦が制定され、結果として、11日は、春分の日の79日(または、80日)前と定義される形となった。

 

以上が、11日が冬のあの時期に置かれている背景である。

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結論
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ユリウス制定当初は、年初を冬至に置き、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日となるよう天文学的意味を持たせた設計にしていた可能性がある。

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しかし、実際の地球と太陽は、そのような設計通りには動かず、キリスト教の復活祭の日取りの前提となる春分の日が、暦面上と実際とで大きく異なる所となり、グレゴリオ暦で修正して、春分の日を3月21日になるようにした。

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結果として、1月1日は、春分の日の79日前(閏年には80日前)ということになった。(換言すれば、天文学的意義はない)

因みに、中国及び日本で使われた、太陰太陽暦は、平均して(というのは、太陰太陽暦では、元旦は地球公転の位置との関係に幅があるので)、立春(冬至と春分の中間点)が元旦になるような設計となっている。考え方としては、古ローマ暦の春に1年が始まるという考え方と同じである。

何分にも、本で得た知識の受け売りである。こちらの理解が足りない所や誤解もあるかも知れない。そのような点があったら、ご指摘頂くと幸甚である。