グレゴリオ暦以前の暦は、ユリウス暦である。これは、シーザーにより、紀元前46年に施行が決定され、紀元前45年1月1日から施行された。
といっても、ユリウス暦以前にローマで使われていた暦はユリウス暦ではない。ローマ暦と呼ばれる太陰太陽暦で、当時、ローマ暦は相当混乱していたらしい。
シーザーは、ユリウス暦施行の前年、通常の太陰太陽暦の閏月の他に、2ヶ月(67日)の閏月をおき、実に445日間という1年とした。
何故、そのような荒療治をしたか。当時のローマ暦が大変混乱していたこともあろうが、何か目的があって、1月1日を設定したと思われる。
古ローマ暦は、年初月は Martius(March)であった。第2月以降 Aprilis、Maius、Iunius と神の名に基づく月が続き、
さらに、Quintilis(第5月の意で以下同様)、Sextilis、September、October、November、Decemberと序数の付いた月が設定され、その後、次の年初月 Martius までの2ヶ月ほどの期間には名がなかった。
農作業の始まる春の新しい年が始まり、収穫を持って終わるという考え方であったようだ。
因みに、第5月 Quintilisは、後に、シーザーを記念して Iulius、第6月 Sextilis はアウグストスを記念して Augustus と改名された。
その後、名前の無かった2ヶ月にも Ianuarius、Februarius の名が与えられ、ユリウス暦制定当時には、年初月は公的には、Ianuariusになっていた。
これが、本来第7、第8、第9、第10を意味知る September 以降の月名が現在、2ヶ月ずれていることの背景である。本によっては、シーザー、アウグストスが月を挿入したためのように書いてあるものもあるが、July、August は月名の変更であって、挿入ではない故、月名のズレの理由ではない。
公的には、Ianuarius が年初月でも、実生活では、Martius を年初とする慣行が強かったようで、それが、ユリウス暦施行後の閏日を、最後の月 Februarius に置く慣行
(余り物扱い)に繋がった。
閑話休題、ユリウス暦施行の1月1日の翌日が、古ローマ暦(太陰暦)での1月1日に当たっていた可能性が高いことが分かっている。現在の天文知識に依れば、ユリウス暦施行の1月1日の翌日が(朔=新月=陰暦一日)に当たっていることが判明している。
一方、紀元前千年頃は、春分3月31日、夏至7月3日、秋分10月2日、冬至12月30日(ユリウス暦で)...2至(冬至・夏至)2分(春分・秋分)が季節の変わり目とほぼ一致していた。
という事情を考えると、ユリウス暦は、年初を冬至の近くに置いたと推定される。つまり、ユリウス歴は、冬至1月1日、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計したのではないか、また、それが、
各月の日数配分(冬の期間の一月が短い)にも反映されたのではないかと推定される。
ユリウス暦制定は、紀元前44年であり、紀元前1000年ではないが、制定当時の天文知識が古いものであったとも考え得る。
シーザーが、ユリウス暦施行の直前の年を445日という変則的な年にしたのは、このような設計、そして、
古ローマ暦での1月1日と合わせる為のものであったと推定することができる。(確たる証拠があるわけではない)
要するに、現在のグレゴリオ暦の基となっているユリウス暦では、1月1日を冬至に置き、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計した可能性がある。
しかし、前述の通り、ユリウス暦が1年を実際より長めに取っていることや、地球軌道が動いていること、地球自体の歳差運動もあって、実際の暦はそのような設計から大きくずれてきている。
現在、冬至:12月22日頃、春分:3月21日頃、
夏至:6月21日頃、秋分:9月23日頃
紀元325年のニケアの宗教会議の頃は、実際の春分は3月21日になっていた。
16世紀、復活祭の日取り決定のためニケアの宗教会議以来、暦面上固定していた3月21日春分を実際の春分に合わせるべく、1582年グレゴリオ暦が制定され、結果として、1月1日は、春分の日の79日(または、80日)前と定義される形となった。
以上が、1月1日が冬のあの時期に置かれている背景である。