ある方から頂いた賀状に、陶淵明の「責子」なる詩を引用・援用された方が居る。
白髮被兩鬢 肌膚不復實 雖有三女兒
總不好紙筆 天運苟如此 且進杯中物
「漢詩を拝借、現在の心境を綴ってみました」とある。
漢詩の素養のない身は、ざっと眺めただけでは意味が分からない。
早速、インターネットで調べてみた。
原詩は、
白髮被兩鬢 白髪両鬢(りょうびん)を被(おお)い
肌膚不復實 肌膚(きふ)復(ま)た実(ゆたか)かならず
[白髪が鬢を被い肌も若さがなくなった]
雖有五男兒 五男兒有りと雖も
總不好紙筆 総て紙筆(しひつ)を好まず
[五人も息子が居るが、全員、学問が好きでない]
阿舒已二八 阿舒は已に二八なるに
懶惰故無匹 懶惰(らんだ)なること故(まこと)に匹(たぐい)無し
[舒はすでに16才だが、無類の怠け者]
阿宣行志學 阿宣は行く行く志學なるも
而不好文術 而(しか)も文術を愛せず
[宣はもうすぐ15才だが文章・学術が嫌いだ]
雍端年十三 雍と端は年十三なるも
不識六與七 六と七とを識らず
[雍と端は13才だが、六と七との区別が付かない]
通子垂九齡 通子は九齡に垂(なんなん)とするも
但覓梨與栗 但(た)だ梨と栗とを覓(もと)むるのみ
[通はもうすぐ9才だが、梨や栗を欲しがるだけ]
天運苟如此 天運苟しくも此くの如くあれば
且進杯中物 且(しばら)く杯中の物を進めん
[これが運命ならば、暫く酒でも飲んでいよう]
てなことらしい。
要は、子供達のできの悪さを嘆き、天運とあきらめつつ、その憂さ晴らしに酒でも飲んでいようかという何とも情けない父親の心境を歌ったもの。
しかし、最初の5言句4句と最後の5言句2句を選び、第3句の子供の数を自分に合わせ改変し、途中の子供をそれぞれ非難する部分は削除して、心境を託すというのは実に洒落たものだ。
この心境には、痛く共感した次第。
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